ねこ猫ヒカル
【3話 お風呂にはいろ!】
「お風呂わいたわよー。」
階下で母の声がする。塔矢は、力無くうつむいている。ヒカルはその横でうきうきしている。しっぽがゆらゆら機嫌良さそうに揺れている。
「碁で勝負すればよかった・・。」
いまさら後悔しても遅い。アキラは、ヒカルと一緒にお風呂に入るのがイヤで、ヒカルに勝負を挑んだ。それが何を考えたのか、じゃんけんで、見事にアキラが全敗したのである。
1回目の勝負はアキラの「ヒカル一人で風呂に入りなさい」対ヒカルの「背中を流して欲しい」の対決。その次はアキラの「ヒカル一人で風呂に入れ」対ヒカルの「頭を洗って!」の対決。3度目はアキラの「ヒカル一人で風呂に入ってくれよ(泣)」対ヒカルの「水鉄砲で一緒に遊ぼう」対決だった。結果、アキラ全敗で、アキラはヒカルと一緒に風呂にはいるだけでなく、「背中を流して」あげて、「頭を洗って」あげて、「一緒に水遊び」までしないといけなくなった。これで、最悪一緒に入ってもさっと出てくるということさえできなくなったのである。アキラはこの世の終わりみたいな顔でずっと下ばかり見ていた。
ヒカルは、アキラとのお風呂にうきうきしていながらも、アキラの暗い様子が気にかかる。わざと、元気よく、アキラの背中にダイブしても、アキラは反応を示さない。
「塔矢ぁ?」
ヒカルは、アキラの背中に抱きついたまま、がくがくと揺さぶった。アキラは、死んだ魚みたいな目で、
「なに?」
と、やる気なさげに答えるが、別にヒカルと会話する気になれなかった。
「塔矢ぁ、ねぇ、お風呂いこ!」
「・・・。」
「ねぇー、ねぇー。」
「・・・。」
「お母さん、呼んでるよー。」
「・・・。」
「・・・。」
ヒカルは、アキラの態度にむーーーっと口をとがらせる。
「なんでー?なんで、オレとはいるのイヤ??」
なんでと言われても、イヤなものはイヤなのだ。だいたい、本当のネコならともかく、人型をしているんだから、自分一人で入れるだろう。なのに、なんで、一緒に入らなければならない?アキラはそう思いながらも、父の
「拾ってきたのはお前だ。拾ってきたものが面倒を見ろ。」
という、一理ある意見に逆らうこともしがたい。
「塔矢ぁ、オレのこと嫌いなの?嫌いなの?好きになってくれるって言ったじゃん。」
ヒカルが、アキラの背中に体重をかける。アキラは、グーッと前に押されながら、またも口をつぐんでいる。ヒカルは、そんなつれないアキラを見ていて、ぱっと思いついた。
「そうだ。じゃあ、風呂なし。アキラが入らないなら、オレも入らないもん。オレ、元々、風呂嫌いだし。でも・・そうすると、あれだよね?お父さんに捨ててこいってまた言われちゃうね。あー、オレかわいそう。また雨の中捨てられちゃうんだ・・。」
ヒカルは、くすんくすんと泣いてみた。もちろん嘘泣きである。
「明日も雨だし・・。オレ、どうなっちゃうんだろ。雨の中ずっと歩くのかな・・。道を走ってる金属の獣にがぶってやられちゃうんだ・・オレ・・。それで、河原に逃げてさ・・増水してる川にさらわれちゃうんだ・・オレ・・。かわいそう・・。オレってかわいそう。」
ヒカルのかわいそう話を背中で聞いていて、アキラは、ぴくっと反応した。きっとヒカルの言った数々のかわいそうな状態を想像したのだろう。少し震えている。それでもヒカルは続けた。本来悲しいならしっぽは寝ているはずだが、相変わらずピコピコと揺れている。しかし、猫を飼い始めたばかりのアキラにはしっぽから感情を読みとれるはずもなかった。
「拾ってくれた塔矢がそこまでオレのこと嫌いじゃしょうがないよ。オレ、あきらめる。少しだけど楽しかった・・。ごめんね。塔矢。」
アキラは、ヒカルの言葉に、形相を変えて、くるっと振り向いた。目にはうっすらと涙がたまってる。
「君を・・君を・・雨の中出ていかせるわけにはいかない!」
「塔矢・・。」
「そんなひどい事・・・。」
「ひどいことできない?」
「ああ。」
「オレのこと嫌いじゃないの?」
「嫌いなもんか。」
「じゃあ、好き?」
「じゃなきゃ、拾ったりしない。」
「オレ・・ずっと塔矢んちにいていい?」
「ああ、いいとも。」
アキラは柔らかく、ヒカルを抱きしめた。ヒカルはアキラの体温に気持ちよい気持ちになって、ごろごろいいそうになるのどを必死にこらえていた。今、とてもいい感じである。アキラにヒカルの真の心の内を気づかれてはならない。しかし、アキラの優しい腕の力加減にヒカルはどうしても何かして答えたいと思った。
「塔矢ぁ。」
ヒカルは、アキラの頬に自分の頬をつけて、スリスリとこすりつけた。猫がじゃれてそうするように。アキラはびくっと驚いたが、ヒカルが躊躇しながらスリスリしているのが感じ取れたので、そのままにしておいた。
ヒカルのすべすべでぷにぷにの頬がアキラの頬を前後する。それはくすぐったくて、何か愛おしい気持ちが心の奥からわいてくるようだった。アキラは初めての感情に居心地が悪くなって、思わず、ヒカルの肩に手をかけた。
「し、進藤、やめ・・やめて。ははは、くすぐったい。」
「塔矢、大好き!」
ヒカルは、我慢できなくなって、アキラに抱きついた。
「わ。」
その拍子にアキラはバランスを崩して、畳の上に倒れた。
ちょうどその時、部屋のドアが開いた。父だった。
「・・・・・。」
倒れたアキラと父は目があって、見てはいけない物を見てしまったような複雑な表情をした。そして、
「早く風呂に入りなさい・・。」
と、短く言って、ドアを閉めた。アキラも、なんだか誤解されたような・・と思ったが、どういったらいいのかわからなくて、困惑した。
そんなアキラをよそに、ヒカルは、アキラにかぶさったまま、幸せそうにごろごろいっていた。
「おっふろー!」
ヒカルは、お風呂の湯船の中でばしゃばしゃと水をはねさせて遊んでいる。
さっきはなぜあれほど一緒に入るのがイヤだったのか、アキラにはわからないくらい、心は落ちついていた。
アキラは、自分が身体を洗ってから、ヒカルを湯船から出して、檜でできた風呂の椅子に座らせた。
「約束だろ。さ、洗ってやるから。」
「うわーい。実はさ、オレ、王子様だから、あんまり一人でお風呂って入ったことないんだ。だから、塔矢と一緒に入れて嬉しい。一人だと怖いじゃん。オレ、お部屋に一人とかあんまり好きじゃないの。」」
「ふーん。本当に王子様なんだ。」
「ふーんって、塔矢、信じてなかったでしょ?」
ヒカルは、くるっと振り返って、アキラを睨んだ。アキラは、ごまかすようにお湯の入った手桶をヒカルの頭にばしゃっとかけた。
「うわぁ。」
ヒカルは、びっくりして急いで目をつぶった。アキラは、ちょっとひどかったかな?と思ったが、今日は散々ヒカルに動揺させられたので、ささやかな仕返しとしようと思った。
「さぁ、洗うぞーー。」
アキラは、ジャンプーを手にとって、ヒカルの頭をごしごしと泡立てた。目をつぶってきゃあきゃあ言っていたヒカルだったが、アキラが途中で、泡でヒカルの髪を固めて、角みたいに立ててみせたり、自在に髪型を変えてみせたりしたので、ヒカルはすっかりシャンプーを楽しんでいた。
「うわー、おもしろーい。」
アキラはアキラで、ヒカルの頭をあらいながら、猫耳の付け根はこうなってるんだ・・とか、猫耳があるのに、なんで、人の耳のあるところにも耳があるのか??とかいろいろヒカルの頭を散策した。
『初めて猫を飼うってこんな風なんだなー。結構楽しいかも。』
アキラは、ふふふっと笑って、今度は石けんをスポンジに泡立てて、身体を洗ってやった。ヒカルはお風呂場にふわふわと漂うシャボンに夢中である。そして、アキラがしっぽを洗ってやろうと、しっぽを手に取った時、ヒカルが甲高い声を上げた。
「きゃああ。」
「え?」
アキラが、驚いてヒカルを見ると、ヒカルは、体勢を保って座っていられないようで、ふらふらと、左右に揺れている。
「だ、大丈夫か?のぼせた?」
アキラが、あわててヒカルを支えると、ヒカルは力無く、アキラの腕にもたれかかってきた。
「にゅー、にゅーん。」
ヒカルは小さく鳴いている。そして、絞り出すように、
「とう・・や・・しっぽ・・・しっぽ・・。」
アキラは、言われて初めて、しっぽをスポンジと一緒につかんだままな事に気がついた。
「しっぽ?」
「しっぽ・・駄目・・あ・・。」
ヒカルの目がうつろにアキラをとらえた。お風呂の湯気の霞のせいか、その表情はなんだか色っぽい。アキラは、
「あ、ごめん。」
と言って、しっぽを離すものの、ヒカルのその白い肌にうっすらとピンクが差して、とろんとした目つきになっているのを見て、かーっと自分の体温が上がるのを感じた。
『お、落ち着けー!し、進藤はしっぽをつかまれてぐったりしただけだ・・・。そんなに早く脈打つな、心臓!』
アキラの冷静な部分が賢明に自分に話しかけてくる。
「にゃ・・。」
ヒカルの小さく開いた口から声が漏れる。唇がつややかに湿っていて、もぎたてのサクランボのようだった。アキラは、花に誘われる蝶のように、ヒカルの唇に視線が釘付けになった。そして、自然にその唇に、顔を近づけていく・・。
ガタッ
「アキラさん、ヒカルちゃんのパジャマここにおくわよー。」
母が、脱衣所に入ってきた音で、アキラはハッと我に返った。
「あ、はい。」
うわずった声で返事をするが、内心は『助かった』・・と胸をなで下ろした。どうしてあんな事をしようとしたのか、自分でもわからなかったが、なぜかどうしても自分を止めることができなかった。どうしてヒカルを見ていると、なんでもないことにドキドキしてしまうのか・・。
じきに、ヒカルもうにゃうにゃとしながらも、なんとか自分で立つことができるくらいまで回復した。
「うにゅ・・塔矢・・もうしっぽ触っちゃ駄目。」
ヒカルは、ふらふらしながら、アキラにパジャマを着せてもらった。
「しっぽ弱かったんだね。ごめん。」
アキラは、さっきの動揺を忘れようと勤めながら、ボタンを留めてやる。母の持ってきたパジャマは、ちゃんとヒカルのしっぽを出す穴をつけてくれていた。アキラは、ヒカルのしっぽにできるだけ優しく触れながら、しっぽを穴に通してやった。
「はい。これでOK。部屋まで行ける?」
「うん。」
ヒカルはまだしっぽの後遺症があるのか、それとも眠いのか、半分目をつむった状態で廊下を歩いていった。
アキラは部屋には自分の布団と、ヒカルの布団が引いてあって、それぞれ別々に寝るものと思っていたのだが・・。