ねこ猫ヒカル
第3部

【8話 裸エプロン】

 アキラの心配をよそに、ヒカルは勉強会の中に混じって、ちやほやされていた。
 一応アキラの言いつけを守って、部屋には近づかないようにしようと思っていたのだが、芦原がトイレに立った際にはち合わせて、
「お菓子食べにおいで。」
と誘われてついてきてしまったのである。アキラはまたも難しい顔をしたが、ヒカルが現れた途端、皆が一斉にヒカルに話しかけだしたので、部屋から追い出すわけにもいかなくなった。
「かわいいねぇ。あれ、でも男の子なんだ。碁はやるの?」
「アキラ君とは遠い親戚だって?」(母がそう説明したらしい)
「エプロン似合うね。」
等々、たわいもない会話の応酬に、ヒカルはお菓子を頬ばりながら頷いていた。
 ちらちらとアキラの方を見て、アキラが自分の方を見ているのをヒカルは確認する。
『塔矢、心配そうにしてる。でも連れ出されないから大丈夫・・なのかな。なんかオレのことだけ考えてじいっと見ていてくれるの嬉しいな。いつもは目をそらすんだもん。なんかこんなにたくさん人がいても、オレと塔矢だけ繋がっているみたいで嬉しい。』
と、一人ほんわか幸せになっていた。
 しかし、アキラは気が気じゃなく、じいっと人の輪の中にいるヒカルに警戒の視線を注いでいた。
「落ち着かないようだな。アキラ君。」
 唯一、ヒカルに近づけないでいる緒方が、アキラの後ろから話しかけてきた。
「随分な人気じゃないか。猫の姫君は。王子様は気苦労がたえないな。」
「・・・。」
「あの猫はかわいいからな。オレが惹かれたのも特別なわけじゃない。誰もがあの猫を飼いたいと思うはずだ。・・まぁ最も、取り巻いている奴らはあれが本当は猫だなんて知らないだろうがな。」
「緒方さん!」
 アキラは小声で緒方をたしなめた。しかし、緒方はアキラが自分の言葉を真に受けて、ヒカルを心配している気持ちがさらに圧迫された事は手に取るようにわかった。そして、4か月前の失態も忘れ、いつもの調子を取り戻してくる。
「猫だってオレが言ったら、皆はどうするかな。なぁ?アキラ君。」
「誰も緒方さんの言うことなんか信じませんよ。」
「ふうん。皆の目の前で彼を猫の姿にしても?オレはあれの弱点をいくつも知っているんだぜ。忘れたかい?アキラ君。猫にする方法だって・・知っているんだ。」
 緒方はふふんと鼻で笑う。
「まぁ猫にしなくとも、あの髪の間に隠された耳と、ズボンの中に押し込まれたしっぽを取り出せばいい。簡単なことだがね。」
「進藤!」
 アキラは緒方の地を這うようなささやき声に嫌気がさして、ヒカルの名を呼び立ちあがった。そして緒方から離れてヒカルのそばに座り直す。
「そろそろ休憩も終わりにしませんか?先日の緒方さんの本因坊戦の検討がまだでしょう。」
「ああ、緒方さんが負けたやつ?」
 芦原がけらけら笑って茶化した。
「そうだな。日が暮れるまであと1時間ほどあるだろう。検討する時間はある。」
 黙って皆が楽しそうにしているのを見守っていた父が賛成したので、皆は一斉に父の前の碁盤の周りに集まり、ヒカルの周りから遠ざかった。ヒカルの隣にはアキラがいるだけだ。
 アキラは、ちらっと緒方を見る。緒方は皆の興味がヒカルからはずれたことで悔しそうな顔をする。アキラは、
『結局、みんなは碁が大事。進藤のことを何よりも大事に思えるのはボクだけなんだ。緒方さんの戯れ言なんかに惑わされまい。』
と思いながら、誰にも見えないようにヒカルの手をギュッと握った。
『ボクは進藤を愛してる。誰よりも強く、誰よりも大事に思ってる。それで十分。彼を無理矢理支配するようなことをボクはしない。進藤の意志を尊重する。・・進藤は、どう思っているんだろう。ボクと手を繋いだり、抱きしめ合ったり、キス・・まではして欲しいっていう意思表示は見える。最近の変わった行動の数々は一体何をしたいんだろう?今もエプロンまで着て・・ただおもしろがってやってるだけなのか・・。それとも、もっと深い意味がある?』
 急にそんなことを思いついて、エプロン姿のヒカルをじっと見る。その視線に気付いて、ヒカルも顔を上げてにっこりする。
「塔矢っ。」
 ヒカルはこそっとアキラの名を呼んだ。
「耳貸して。」
 アキラがヒカルの方に身体を傾けると、ヒカルはひそっと耳打ちした。
「ねぇ、裸エプロンって何?」
 アキラは耳を疑った。「裸エプロン」なんて言葉は今初めて聞いたが、言葉個々の意味はわかる。「裸」で「エプロン」を着るという意味だろうか。普通そんな事は寒いし、意味がないのでするはずもない行動だが、一瞬ヒカルが裸でエプロンを着ている姿が脳裏をよぎりそうになり、アキラはぶんぶんと首を振って飛ばし捨てた。
「な、な、なんでそんな言葉・・?」
「さっき、誰かが『エプロンっていったら男の理想は裸エプロンだ。』って言ってた。」
 アキラは誰ともわからないが、父の周りで検討に真剣になっている塔矢門下の男共の背中を困惑した顔で睨んだ。
『進藤に変なこと教えたやつは誰だ!』
という思いと、自分も一瞬でも想像しそうになった裸エプロンの図が大人の男の理想というのはなんとなく納得できるような思いと、そんな事を考える自分が汚くなったような非常に複雑な思いが駆けめぐる。そんなアキラの思いなど知らずに、ヒカルは離れたアキラの耳をキュッと引っぱって引き戻し、
「塔矢の理想も裸エプロン?」
なとど聞いてくる。その声と一緒に耳に当たる暖かい息が、汚れた大人の思考が芽生えつつあるアキラの脳を異様に刺激する。ぞわぞわっと寒気に似た物が走って、押しとどめていた妄想の壁がばたりと崩れ落ち、またも目の裏にキラキラと光の舞う中にアキラビジョンのかわいくて甘えた瞳のヒカルの姿が浮かび上がる。
「塔矢ぁ、オレ、ご飯作ってあ・げ・る。」
 エプロンをつけたヒカルがふわりと後ろを向くと、元気のいいしっぽと一緒に、むちむちとしたお尻が・・ズボンのはいていない生のお尻がぷりんとエプロンの紐を結んだリボンの間から現れる。
「やだなぁ。塔矢、そんなに見たら、オレ恥ずかしいだろ。」
 そう言って妄想の中のヒカルはなぜか手に持った泡立て器でお尻を隠そうとする。そんなもので全然隠れるわけがないのに。
「なんだぁ?二人とも仲がいいんだなぁ。内緒話?」
 そんなのんきな芦原の声で、アキラは現実に帰る。
「あ、芦原さん!」
 アキラは妄想を悟られまいとして、焦って妙に調子の外れた声を出してしまった。
「そんな驚かなくても。あれ?アキラの顔真っ赤だぞ。」
「き、き、気のせいですよ。」
「なぁ?進藤君もそう思うだろー?」
「うん。赤い。」
「そんなことない。ボクは何もエプロンのこと考えてなかったし・・。」
「エプロンのこと?」
 口が滑ってしまい、アキラは慌ててドギマギしたが、芦原は気にしていないようで、
「ああ、そうだ。今年の忘年会の幹事、オレとアキラに決まったからな。よろしっくー。」
「え?幹事?」
「大丈夫大丈夫。未成年のアキラにはなんもわかんないだろうからぁ、オレが全部仕切るし。アキラは名前だけだから気にすんなって。はりきっちゃうぞー。じゃ、オレ、そろそろ帰るから。」
 宴会好きな芦原は、一人でウキウキとそれだけ言って去っていった。日が暮れだして、勉強会はお開きになった。

 夜もふけて、風呂の順番が回ってきた。
「今日はなんだかものすごく身体が重いな・・。」
 たびたびの妄想に取り憑かれて、アキラはどかっと疲れてしまった。
「ゆっくりお湯にでも浸かれば直るかもな。」
 アキラはそんなジジむさいことを言いながら、風呂に入る。湯船に浸かって一息ついたところで、ガラガラっと脱衣所の扉が開く音がする。
「?」
 母が何か取りに来たのかと思ったが、すりガラスにチラチラする影はちっとも出ていこうとしない。もぞもぞとなにやら動いている。
「もしかして・・進藤?」
 アキラが声をかけると、
「うにゅう〜。」
と、奇妙な声がする。
「どうしたんだ?」
 アキラは湯から上がって扉に近づく。
「今日は一緒に入ろうと思って来たんだけど・・。」
「うん?」
「とれなくなっちゃった。」
「何が?」
 アキラが扉に手をかける前に、ヒカルの方から扉を開ける。
「ほらぁ。」
 そうして、いきなり、アキラの方にお尻を向けた。もちろん何もはいてない。妄想したままの生のお尻だ。
「!!!」
 そのお尻にほどき損ねて固結びになってしまったエプロンのヒモが垂れ下がっている。
「塔矢ぁ、とってぇ。」
 ヒカルは、半泣きでアキラにお尻をぷりぷり寄せてくる。アキラの神経はすべてがショックで停止した。
   ドタン
 その後どうなったのか、アキラは覚えていない。気がついたら、冷たい手ぬぐいを額にのせて自分の部屋で寝ていた。隣にはいつもどおりパジャマを着たヒカルの寝顔。
 起きあがろうとすると、後頭部がずきんと痛んだ。どうやら大きなこぶができている。
「・・・。」
 塔矢アキラ、人生で初めて朝が来るのが怖いと感じた一瞬だった。



--Web版第3部 完--

ネコTOPへ