ねこ猫ヒカル
第3部

【7話 動揺と妄想の素】

「どうしたー?アキラ?元気ないなぁ。」
 今日は塔矢家で塔矢一門の棋士が集まって月に1回の勉強会の日だった。父の弟子の中でも一番気さくで面倒見がいい芦原は、アキラの一番気の許せる人だ。優しい割に細かいことを気にしなくて、忘れっぽいので気楽に話ができる。
「そう・・?」
 アキラは思い当たる節はありまくりだったが、自分ではそうは思わないというように苦笑いをした。毎晩ヒカルの色じかけにほとほと困っていてあまり寝られなくなっているのだ。しかもヒカルの色じかけは本人それとわかっていないからタチが悪い。最初はどうしてそんなことを急にしだしたのか理解できなかったが、だんだんヒカルは単におもしろがってやっていることに気付いた。しかし、気付いたところで悲しい男のサガでかわいいポーズで上目遣いされれば毎回のぼせて自制するのに必死である。のぼせすぎて鼻血を出す前に冷静を取り戻そうと、最初は自分の中で悔しかった対局の棋譜なんかを頭の中で並べていたが、それも効かなくなってきていた。無理矢理ヒカルを寝かしつけるも、その後興奮がぐつぐつと奥底で煮えたぎっていてもぞもぞして眠れない。何度も寝返りをうってようやくうとうとしたところで朝になる。そんな毎日では元気もなくなるというものだ。
 そんなアキラの様子を誰も知らないはずだが、芦原にはお見通しのようだ。
「元気ないぞ。連戦連勝なのになんでそんな辛気くさいんだぁ?ちゃんと寝てるかぁ?」
「囲碁で連勝していても、人生で連勝しなければ意味がないさ。」
 後ろから声がして、縁側でたばこを吸っていた緒方がいつの間にか戻ってきていた。
「緒方さんの人生負けばっかりですもんね。」
 芦原がけらけらと笑って言った。
「芦原ぁ!」
 緒方はギリッと歯を噛みしめて睨むが、芦原は慣れたようにその視線を無視してにっこりと微笑む。
「最近、緒方さん、大人しいですね。夏頃から勉強会にもずっと来てなかったし、なんかあったんですかぁ?」
「黙れ。芦原。オレは忙しいんだ。」
「忙しいんですかぁ?オレはてっきりなんかまずいことでもやらかして、塔矢先生に顔を見せられないのかと思いましたよ。」
 芦原鋭すぎである。確かに7月の塔矢名人の誕生日にまずいことをやらかしまくった緒方である。そろそろほとぼりも冷めたかと思って勉強会に来てみたのに、古傷を何も知らない芦原にえぐられて、顔をしかめてアキラをちらっと見る。
 アキラは
「その時のことは思い出したくない。」
というように、顔を背けた。
「緒方さんの負け人生のことはどうでもいいんだ。アキラ、ほんと顔色悪いよ。悩み事があるならさぁ、相談していいからな。水くさいぞ。」
「悩み事というほどのことは・・。」
 アキラはそう流そうとして、ふと開いた襖の方を見てぎょっとした。
「みなさん、お茶が入りましたよ。少し休憩されたら?ごめんなさいね。主人ももう少ししたら戻ってくると思いますから。」
 そう言ってたくさんの湯飲みをのせたお盆を持つ母の後ろに、人影が見える。
「お菓子、適当に置いてね。ヒカルちゃん。」
「うん。」
 ヒカルである。今まで絶対に勉強会などたくさんの人間が来ている時には姿を現さなかったヒカルなのに、今日はなぜかお手伝いをしに来ていた。
 しかも・・しかも・・なぜかエプロンをしている。白いひらひらのフリルのついた清楚なエプロンは、ヒカルに似合いすぎである。
「し、し、進藤!!!」
 アキラは動揺して叫んだ。ヒカルがみんなの前に姿を現したのにも驚いたのに、それ以上にエプロン姿にドギマギする。
「アキラ?」
 芦原の不思議そうな声にアキラは自分が思わず立ちあがっていることに気付く。気まずかったがそのまま座るわけにもいかず、ささっとヒカルに近づいて腕をとる。
「わわっ。塔矢ぁ、まだお菓子並べ終わってないよぅ。」
「いいから、来るんだ。キミがそんな事しなくていい。」
「お手伝いしてるのにー。」
 ヒカルを半ば引きずるようにして、アキラは廊下に出た。今まで連れてきて、ムッとした顔でヒカルに振り返る。
「キミは何をしているんだ!」
 アキラがぴしゃんと怒鳴った声にヒカルはびっくりして肩をすくめた。そして、不満げに、
「お母さんのお手伝いしてただけだよ。たくさんあって持っていくの大変そうだったから・・。」
「みんなの前に出てはいけないといつも言っているじゃないか。それに今日は緒方さんも来ているんだ。キミはまたあんな目にあいたいのか?」
「違うよ。でも普段お外も出ているし、誰もオレを猫だなんて思わないでしょ?耳もしっぽも隠してるし・・それに緒方さんがいたって、もう大丈夫だってお母さんが・・。」
「ふざけるな!」
 アキラの怒りの声にヒカルはきゅっと目を閉じる。すぐに目を開けたが、その目には涙が湧き出てきていた。アキラはハッとして決まりが悪そうに唇を噛んだ。
「だって・・だって・・緒方さんがなんかしてきたって、塔矢が守ってくれるでしょ?」
「それは・・そうだが・・。」
「じゃあ、そんなに怒らなくてもいいじゃん。」
「でも、キミもキミ自身で注意しないとダメだ。軽はずみに人前に出るようなこと・・。」
 ヒカルがホロホロと涙を流すのを見ていられなくて、アキラはそうっと肩を抱いた。
「泣かないで。進藤。ごめん。怒鳴ったのはあやまるよ。」
 肩を抱いた手に、いつもと違う感触を感じる。エプロンのフリルである。真っ白ないかにも新婚の奥さんが着そうなイメージのかわいらしいエプロンである。胸元なんかはハート形のアップリケが施してある。
「・・・でも、その格好は・・どうかと思うんだけど・・。そんな格好で人前に出ちゃダメだ。」
 アキラは母で見慣れたエプロン姿をヒカルがしているとなんだか違和感があることに気がついた。普段していないからという目新しさから来る違和感ではない。なんだかその姿を見ているだけで何かが沸々と胸の辺りに湧いてきて、もぞもぞした気持ちになるのだ。照れくさいような・・なんだか見てはいけないような物を見ているような気持ちだ。
「なんで?似合わない?」
 アキラに軽く抱き寄せられただけで嬉しくなったヒカルはさっきまで泣いていたのに、もうニコニコしている。
「かわいいでしょ?お母さんが昔着てたやつだって。新婚さんの時だって。」
 そう言って、ぴらりとエプロンの裾を持ち上げる仕草は、エプロン以上にかわいらしい。アキラは目眩を覚えた。最近目眩ばかりのアキラである。遠のきそうな意識を引っぱり戻したものの、
「かわいいから、ダメだ!」
と、言いそうになり、慌ててごにょごにょ言葉を濁す。そこにヒカルが追い打ちをかける。
「お母さんがね。リボンも付けてあげようかーって、エプロンとお揃いの出してきてくれたんだよ。」
 指差す方にはテーブル。テーブルの上にはフリフリでかわいいらしい白い大きなリボンが置いてある。アキラはそのリボンをしているヒカルを瞬時に想像してしまい、またもや視界が歪んでくる。頭の中では「エプロン、新婚、リボン」という言葉がぐるぐるして、なぜかお花畑でエプロンとリボンを付けたヒカルがクルクル回って、
「塔矢ぁ、早くぅ。あ、間違えちゃった。オレ達新婚さんだから、そんな呼び方しちゃダメだね。あ・な・た。」
とか言ってはにかんで笑っている。アキラの妄想の海は最近のヒカルの数々の奇行によって濃度を上げつつあるようだ。
「塔矢ってば!なにぼんやりしてんの?」
 がくがくとヒカルに揺さぶられて、アキラはようやく元の世界に戻ってくることができた。戻ってくると途端に恥ずかしさが全身に回り出す。
「と、と、と、とにかくダメだ!」
「何が?」
「リボンもエプロンもダメだ!」
「なんでー?リボンは女の人がつけるものだって言ってたからオレもしなかったけど、エプロンはいいじゃん。ひらひらしてて面白いし。」
「ダメだったらダメだ!」
「お母さんだってしてるじゃん。」
「お母さんはお母さん。キミはキミだ!」
「やだ。オレ、気に入っちゃったもーん。エプロン。」
 そう言って、ヒカルはひらりとアキラの腕からすり抜けて、廊下に出ようとして誰かにぶつかる。
「うわっ。」
「こらこら。お前達はいつもふざけてばかりだな。」
 父であった。そして、父もなぜかいつもの着物の上にエプロンをしている。
「お父さん・・その格好・・。」
「ああ、町内会のイチョウ並木の掃き掃除当番でな。今日は風がなかったから随分綺麗になった。おお、そうだ。皆が待っているだろうな。」
と、父はその格好を気にもしてない様子で、勉強会会場の部屋に向かった。
「ほら、お父さんだって、エプロンしてるじゃん。」
 ヒカルは鬼の首を取ったようにアキラに言った。
「塔矢もすれば?エプロン。」
 きししと笑ってヒカルがつっつくと、アキラは静かに、
「いや、結構。」
と言うだけだった。

             
       

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