ねこ猫ヒカル
第4部
【4話 およめさんになれないじゃん】
「はぁ・・。」
結局なんの解決策も見いだせないまま、夕飯の時間になってしまった。食卓でアキラは辛気くさくため息をつく。
「あら、いやね。お食事中にためいきなんて。どうしたの?アキラさん、今日の夕飯おいしくないかしら・・。」
母は入れ立ての熱々のお茶をそれぞれに配りながら心配そうにおかずを見た。
「どれもおいしいよ!お母さん!」
ヒカルは元気よく芋の煮物を頬張った。
「いっそ・・風邪でもひけば・・。」
アキラは丈夫なこの身体を恨んだ。風邪をひけば銭湯に行かずにすむと思い、仕事帰りに無理をして上着やコートを脱いで、風に吹かれて帰ってきたのに、喉さえ痛まない。
「塔矢ぁ、具合悪いの?」
ヒカルはそう言いながら、箸の付いていないアキラの焼き魚を狙っている。しっぽがブンブン振られて期待加減を表している。アキラは無言で魚の皿をヒカルの方に移動させてやる。
「うわーい。」
ヒカルはすぐにアキラの魚にかぶりついた。
「アキラ、好き嫌いはいかんぞ。棋士たるもの、何でもよく噛みしめ、味わい、そして何事も糧にして体を作っていかないとな。頭脳だけではいつか息切れするぞ。」
父の言葉にうっすらと、
「はい・・・。」
と気のない返事をして、アキラはまたため息をついた。
「あなた、アキラさんがこんなに食べないのは、何か心配事があるからに違いないわ。ねぇ?私達で力になれることだったら話してみたら?アキラさん。」
言えるはずもない。ヒカルの身体に欲情してしまいそうだから銭湯には行けないなどと。アキラは、
「いえ・・別に心配事なんて・・。」
と、ごまかして、お茶を飲んだ。
「そうだ!」
ヒカルが唐突に言った。
「オレ、わかんないことがあるの。お父さんやお母さんにならわかることかも!」
「なぁに?ヒカルちゃん。」
「『さかり』ってなに?」
ぶーーーっ
アキラは勢いよく茶を吹いた。そしてゲホゲホとむせる。
「あらあら大丈夫?」
母はおひつにかけてあった布巾をアキラに渡した。
「ゲホッ・・すみません・・。」
アキラは目を白黒させながら口元をぬぐった。
『進藤は今なんと言った?さ、さかり?かりって言ったか?』
アキラは頭の中でその言葉をリピートしてめまいがした。
しかし、父も母もヒカルの質問に平然としていて、よりにもよってまじめに答えようとしている。
「さかりか・・。なんだ、猫もそんなお年頃か?」
「違うよ。オレじゃないよ。猫の知り合いがそれになっちゃったんだって。それって何?どうなるの?具合悪くなるの?」
「そうだなぁ・・。よく猫がすごい声を出してオス同士がけんかしたりしているのは耳にしたことはあるが・・。」
「オスがけんか?さかりになるとけんかするの?」
「そうよ。女の子をお嫁さんにするために男の子同士が争うの。それで勝った方がお婿さんになれるのよ。」
「およめさん・・。」
「お母さん、小さい頃近所の家で飼われていた猫がいたんだけど、さかりがくると猫は大変だったわ。自分では感情が抑えられないのね。いつもはおとなしい猫がピリピリしてすぐにけんかして。とても大きな声で鳴いたりね。それはそれはせつなそうに。反面とてもけだるそうで、ぐったりしている時もあったわね。」
「そっか。そんな風になっちゃうから仕事もできなくなっちゃうんだ・・・。」
ヒカルは納得した。
「そういえば、ヒカルちゃんもこの頃ぐったりしてたわね。病気でもないみたいだし、もしかして、軽く『さかり』が来ていたりしてね。」
母は冗談めかしてそう言った。ヒカルはその言葉にビクリとする。
「お母さん、冗談はやめてください。」
アキラは「さかり」と聞いてどきっとして、その鼓動を隠すように大きな声で言った。
「もちろん冗談よ。まぁ怖い。」
母はほほほと笑って、
「ヒカルちゃんはまだまだ子供ですもの。さかりなんてまだ来っこないわ。」
と、ごまかした。しかし、ヒカルはそんなことは耳に入っていないように目を宙に浮かせている。
「オレ・・さかり?」
つぶやく声はアキラにしか聞こえなかったが、それで十分だった。アキラはあわてて立ち上がって、ヒカルの肩に手を置いた。
「進藤、食事が終わったなら2階に行こう。今日は10秒碁をやる約束だったろ?ごちそうさま。お母さん。進藤を連れて行きますよ。」
「どうぞ。今晩は銭湯に行くから、ヒカルちゃんが眠ってしまわないようにアキラさんが気をつけてね。23時に出かけるわよ。」
「わかりました。さ、進藤。立って。」
アキラに促されて、ヒカルは席を立った。
手をつないで階段を上る。ヒカルの手の温かさを感じながら、アキラは思った。
『もし進藤がさかりだというなら、ボクに責任がある。多分ボクが進藤にあんなことをしたから・・。進藤にはまだ意味がわかっていなかった。それをボクは欲望に負けて・・。急ぎすぎたから、進藤の調子を狂わせてしまったのかも。』
アキラは唇を噛んだ。ヒカルがさかりだというなら、なんとか自分が力になれないかと思った。ヒカルが本能の叫びにきしんだ体をもてあまして、自分を失って気がふれたように泣く姿など誰にも見せたくないし、そんな事になったらヒカルだってかわいそうだ。本来ならもっと先、成熟してから起こるべき身体の変化を、こんなまだ少年の華奢な身体で耐えさせるのはいかんともしがたい。
『ボクのせいだ。』
アキラは握る手にぎゅっと力を入れた。
2階のアキラの部屋に付くと、急にヒカルはアキラに抱きついてきた。
「塔矢ぁ!どうしよう!オレ、さかりかもしれない。だって・・身体が変だもん。だるいし、時々イライラもするし・・・。」
「そうかもしれないけど、きっと大丈夫だよ。進藤。」
「大丈夫?大丈夫じゃないよ。オレ、さかりだったら・・さかりだったら・・・オレ、『オス』だもん。オスはおよめさんをもらうってお母さんがさっき・・・。」
ヒカルはぽろぽろ涙をこぼして膝から崩れた。
「オレ、およめさんもらわなきゃいけないなんて困るもん!だって、オレは塔矢のおよめさんになりたいんだもん!およめさんもらったら、オレがおよめさんになれないじゃん?!」
アキラは、
『それはなんか違うから・・。』
と思いながら、少し嬉しくなった。ヒカルの素直な思いがじんわりと染みこんでくる。
『ああ、こういう感じ・・ほんのり胸が暖まるような嬉しい感じ。忘れてたな。進藤がボクを想っていてくれる事、それだけが素直に嬉しい。』
あまりにヒカルがわぁわぁと泣くので、アキラはとりあえず落ち着かせようと、にやっと笑ってしまいそうな口元を引き締めて、髪をなでるのだった。