ねこ猫ヒカル
第4部
【5話 好きの量】
「だから、別にさかりだって言っても、お嫁さんをもらわなきゃいけない訳じゃないと思うんだよ。」
アキラはあれこれ手を変え品を変え、ヒカルが心配がらないように説明した。
「そうかなぁ・・。」
ヒカルは鼻をかみながら、上目遣いにアキラを見る。まだまだ疑っているようだ。
「それに、キミがさかりだと決まったわけじゃないじゃないか。それにもしさかりだとしてもボクが・・。」
そこまで言ってアキラははっと口をつぐんだ。
「塔矢が?」
無邪気に聞き返してくるヒカルに、アキラは咳払いでごまかした。
「とにかく、大丈夫だから。ね?」
「そういえば、和谷も言ってた。さかりだとなんかすればおさまるって。でもそのなんかをすると結婚しなきゃいけないから・・とか・・。」
「なんか?」
「その『なんか』がわかんないんだけどね・・。和谷のやつ、ごまかしてさ、オレに教えてくんねーの。」
「・・・何となく想像できるけど・・。」
アキラはイヤな汗をかいた。
「え!塔矢、わかるの?何をすればおさまるのか。なーんだ。わかるんだったら安心だね。だって、オレがもしさかりでも、その治る方法をやってみればいいんだもん。」
「そ、そうだな・・。」
アキラはそう言いながら目をそらした。ヒカルは全然わかっていないようだが、子供ができる、結婚しないといけないと言えば、「あれ」に決まっている。アキラが今最も関心のある「あれ」だ。
『もしさかりがおさまると言えば、進藤はおとなしくボクにもう一度チャレンジさせてくれるだろうか。』
と思ってしまう姑息な自分が、理性でふたをした心の内側で大きな声で「開けろ開けろ」と呼んでいる。こんなチャンスはないじゃないかと叫んでいる。
「良かったー。オレ、およめさんもらわないといけないのかと思ってびっくりしたよ。あ、そうだ!」
ヒカルはしっぽをピンと立てた。
「いい事思いついた!オレ、ずっとどうやったら塔矢のおよめさんになれるのかって考えてたんだけど、簡単なことだったんだね。」
「え?」
「塔矢がぁ、『さかり』になったら・・・オレがおよめさんになればいいんじゃん!」
ヒカルの言葉にアキラは雷に打たれたような衝撃を受けた。
『もし、「ボクは今、実はさかりがきているんだ」と進藤に言えば・・進藤は進んでボクのおよめさんになるためにその身を捧げて・・・。』
アキラのめくるめく妄想の園が激しくリアルに展開する。かぁっと全身の血が上がったり下がったりして、目の前のヒカルの笑顔を抱きしめたくなって手を伸ばすが、すんでの所で理性が邪魔している。所在のなくなった手指はカクカクと不自然に動く。
「でさぁ、塔矢はいつさかりが来るの?」
無邪気・・それはどんなに罪深いのか。純真無垢を絵に描いたような微笑みでヒカルは微笑み見上げている。アキラには一瞬ヒカルが皿にのったごちそうに見えた。
「だーーーー!」
アキラは全身に残っている理性のかけらを寄せ集めて、立ち上がった。運動をしたわけでもないのに息が上がっている。
「塔矢?」
眩しいほどのヒカルの純粋さをアキラはなるべく見ないように目を閉じ、自分の中を見つめ直した。
『進藤はボクを誘っている訳じゃない。何もわかってないだけだ。落ち着け!」
30も40も年上の高段者と対局するのに恐れたことなどないアキラだったが、今人生最高に目の前にいる進藤ヒカルが怖かった。
『本当に進藤は何もわかっていないんだろうか。わかっていて、ボクを試しているんだろうか。何もかもボクの動揺さえわかって言っている?いや・・そんなわけはない。進藤は初めて降る雪の結晶のように清らかで柔らかで綺麗なだけの心を持っている・・。計算して物を言うような進藤じゃない。』
アキラはスーハーと深呼吸で平常心を取り戻そうとした。深呼吸だけでは足りなくて、父が毎朝やっているラジオ体操を無意識に行ったりもした。
「なんで急にお父さんのやってる体操してるの?変な塔矢・・。」
ヒカルは怪訝そうだ。目の前の人間が話の途中で意味もなく体操を始めたらそういう反応をするのは当然だろう。しかし、アキラにはそれが変だとか考える余裕もない。とにかく自分が落ち着き、理性的になれればそれでいいのだ。
一通り腕を振ったり足を曲げたりして、少し吐く息も冷たく感じた頃、アキラは真顔になってヒカルに向き直った。
「進藤・・。」
「あ、終わったの?」
「よく聞いてくれ、進藤。えっとボクは人間だから『さかり』というものはないんだ。」
「へ?」
「そういうのは猫とか犬とかにあるもので、人間にはないんだよ。」
「えー。つまんない。」
「つまんなくない!」
「それじゃあ、塔矢はオレのこと、およめさんにしてくれないかもしれないじゃんか。」
「で、でも、ボクはキミのことを愛しているから・・その・・およめさんにはなれるかどうかはわからないが、一緒に暮らして幸せにすることはできると思う。」
「えー、でも、およめさんになれば、ずーっと幸せに幸せに暮らしましたとさになるんでしょ?およめさんにならなくても絶対ずーっと幸せになれる?」
「なれるさ。ボクがキミが好きで、キミがボクを好きでいるならば。」
アキラは話しているうちにだんだん落ち着いてきたような気がしていた。強烈な衝動的愛情が徐々におとなしくなり、ほんわかした愛情が漂ってきている。
『よし、ボクは自分に勝った!』
アキラは自分の綺麗な台詞に酔った。十五歳の自分たちにはこれくらいの純愛路線がお似合いだ。
しかし、ヒカルの反応はというと、アキラの期待を裏切るものだった。
「そんなのやだ。オレ、わかんない!」
ヒカルは口をとがらせた。
「そりゃあ、オレは塔矢が好きだけどさ・・確実な方法が欲しいんだもん。絶対に一緒にいられるっていう証拠が欲しい!およめさんになれば、お母さんみたいにいつまでもいつまでも幸せに暮らせるんでしょ?お父さんのこと、心配したりしなくて、どっしり構えていられるんでしょ?」
「え?心配?」
ヒカルはハッとしてばつの悪そうな顔をした。ずっと胸の奥にしまおうしまおうとしていた本音をとうとう言ってしまったのだ。
「どういうことだ?進藤。キミは心配をしないためにおよめさんになりたいと思っているって事?」
アキラは寝耳に水だった。ヒカルが「およめさんになりたい」と思っているのは単にずっと一緒にいられるとか幸せに暮らせるとか、童話のお姫様に憧れるのと近い感覚で夢見ているだけだと思っていたのだが、本当はもっと現実的な何かがあって、その上で言っているのだと初めてわかったのだ。
「心配って何?何を心配してるの?」
アキラは目をうろうろさせるヒカルの顔を、両手で包み込んで、こちらに視線を戻そうとした。アキラの体温が頬にかかると、ヒカルも観念したように言った。
「オレ、塔矢が、他の人の事、いつか好きになって・・・・オレが捨てられちゃうんじゃないかっていつも怖いの。・・・塔矢はオレのことどれくらい好きなのかわかんないもん。」
アキラは最初何を言われたのか理解できなくて真っ白になったが、何度か頭の中で繰り返すうちにわかってきて、眉間に濃いしわを寄せた。
「なんだって?そんな馬鹿なこと・・。キミはボクの愛を疑っているのか?」
「疑ってなんかないよ。たださぁ・・・。」
「疑っているの何者でもないだろう。キミはそんな事考えていたなんて、全然知らなかった。そうか・・。だから、なかなかボクがもう一度やってみようと言っても拒否するわけだ。」
「もう一度って?何を?」
アキラは怒りにまかせて思わず自分の率直な欲望を口にしてしまい、それをごまかすように声が大きくなった。
「と、とにかく!とにかくだ!キミはずっとボクがキミを好きだと言っていても、信じていなかったわけだ。本心では、心の底ではキミの「飼い主」という枠から出ていなかったということか。」
「ち、違うよ。」
「どう違うんだ。それとも、ボクを試していたのか?ボクの愛がどれほどか、いつも量っていたとでも?まさか・・キミがそんな事を?」
「違うってば!」
「違わないだろ。ボクがキミのことをどれだけ好きなのかわからないって言ったね。ボクの今までの行動、言葉でわからないのかい?もう半年も一緒にいて、わからないなんて・・ありえないだろ。ふざけるな!」
アキラの強い口調におろおろしていたヒカルだったが、アキラの怒りに燃えた瞳を間近に見ている事に耐えきれなくなった。
「じゃあ、塔矢はオレがどれくらい塔矢のことが好きか。わかってるの?塔矢だって、わかってないじゃんか!」
ヒカルは今までこんなに大きな声を出したことはなかった。叫んで喉がひりひりして、その後はうわーんと盛大に涙が出た。
アキラのいらいらは最高潮に胸を内面から突き上げて、どうしようもなかった。
「勝手に泣いていればいい。ボクはなぐさめない。」
そう言って、アキラはガラにもなくガスガスわざと足音を大げさに立てて、部屋に泣くヒカルだけを残して出ていってしまったのだった。