ねこ猫ヒカル
第4部

【6話 思いめぐらせ】

「やっぱり、お前達、けんかしていたのか。」
 銭湯に行く時間になって、玄関先でアキラとヒカルがわざとらしく離れて立っていると、父があきれ顔でそう言った。
「下にも聞こえたぞ。お前達の怒鳴り声。それと猫の泣き声もな。」
 アキラもヒカルも黙っている。ヒカルはスンと赤い鼻をすすった。
「何が原因だ?十秒碁をやると言っていたな。勝敗でけんかをしたのか?お前もプロなのだから、手加減してやりなさい、アキラ。」
「違うよ。碁は打ってないし・・。」
 父の言葉をさえぎるようにヒカルが思わず否定した。
「じゃあ、なんだ?」
「・・・。」
 父の問いかけに二人はさらに押し黙った。
「まぁまぁ、いいじゃありませんか。銭湯に行って同じお湯につかればすぐに仲直りするわよ。アキラさんもヒカルちゃんも本当は喧嘩なんてしたくないはずですもの。ね?」
 母は父にお風呂セットを渡しながら、二人に目配せした。そして、
「はい。これはヒカルちゃんのコートね。」
と、ヒカルに焦げ茶色のダッフルコートをすすめた。
「アキラさんが中学1年の時に着ていた物だけど、ヒカルちゃん、着られるんじゃないかしら?ほら!ぴったり。アキラさん、背が伸びてしまってすぐに着られなくなってしまったから、まだまだ綺麗だし。これから寒くなってもこれを来て外に出るといいわよ。今日は特にたくさん着ないと湯冷めしますからね。ほら、マフラーもどうぞ。」
 ぶかっとしたダッフルの袖口からはヒカルの指先しか出なかったが、母はシマシマに編んだ手袋もつけてくれた。
「急いで編んだの。ヒカルちゃんのしっぽと同じ色でシマシマにしてみたのよ。」
「うわぁ、嬉しい。」
 ヒカルは素直に喜んだ。初めての手袋もマフラーもコートもとても暖かかったし、とても気に入った。
『なかなか似合うんじゃない?オレ!』
と、少しウキウキしてアキラの方を見ると、アキラはあわてて視線をそらせた。ダッフル姿のヒカルに少し目を奪われていたようだったが、すぐに我に返ってむすっとした怒り顔に戻る。
『塔矢・・すんげー怒ってる・・。そんなにオレ、悪い事言ったかなぁ・・。やっぱり正直に話しちゃいけなかったんだ。』
 ヒカルはしょんぼりした。二人の間に流れる微妙な冷たい空気を感じて、母はわざと明るく言った。
「ヒカルちゃん、富士の絶景見られるわよ。よかったわねー。」
「う、うん・・。」
「じゃあ、行きましょうか。しゅっぱーつ!」
 母はヒカルの手を取って、さっさと夜道を歩いた。その後ろを父とアキラがつづく。
 ヒカルは、歩きながら考えた。
『塔矢は他の人を好きになるかもしれないのが心配だとか、そんな事言うオレにがっかりしたのかな。疑ってるって言ってたけど、これって疑ってるのとは違うよね。だって、塔矢がオレのこと好きだって事はわかってるもん。知ってるもん。それはちゃんと大事にしてるもん・・。オレが言ってるのは未来のことだもん。今好きでも、1年後5年後にオレのこと好きかって事・・ずっと好きでいてくれるのか・・。やっぱり塔矢だって人間だし・・人間ってすぐに飽きて猫を捨てるって習ってきたし・・そのせいかな・・。ずっと怖かった。オレもいつか捨てられるのかなって思ったら・・。』
 ヒカルはじわっと涙が出てきた。泣いているのを母に知られてはまずいと繋いでいない方の手で鼻をすする振りをして涙をぬぐった。
『でも本当なんだもん。本当にそう思うんだもん。塔矢のことが好きになればなるほど、不安になる。きゅっと苦しい。塔矢はそういうことないのかな。ずーっとずーっと幸せが続くかどうか、考えて心配になったりしないのかな。』
 ヒカルがそう考え込んでいると、あっという間に銭湯に着いた。
「さぁ、着いたわよ。私は女湯だから、ヒカルちゃん達は仲良く男湯ね。」
「お母さんだけ違うお風呂なの?」
「そうよ。じゃあね。3人仲良くね!」
 母は「仲良く」をやたら強調して言った。
「うむ。仲良くだな!」
 父はまかせておけとばかりにうなずいた。
 暗闇の中、柔らかい光があふれる銭湯の入り口を入る。暖簾をくぐって、靴を脱ぎ、父の後について番台のおばさんに会釈をした。番台のおばさんはすぐに女湯の方へ行って、母との世間話に花が咲かせているようだ。
 父はその言葉の切れ端を耳にとめながら言った。
「今のうちに急いで脱いで風呂に入ってしまうといい。そうすれば、お前のしっぽも気づかれないしな。ただ、腰にタオルを巻けよ。念には念をだ。」
 ヒカルは父のそばにくっついて見よう見まねでロッカーに服を押し込んだり腰にタオルを巻いたりした。アキラはさっさと一人、反対側の離れたところへ行って脱いでいた。
『はぁ・・ある意味助かったかもしれない。』
 アキラは音だけで父やヒカルの様子をくみながら、自分の心の中を見つめた。幸い心配していたほどのことはなく、鼓動も落ち着いていた。
『喧嘩していなければ、進藤もボクにまとわりついてくるだろうし・・。今だったら冷たい態度で避けていれば、なんとか目にしないようにできるだろう。風呂から早く出てしまえばとりあえず最悪の事態は避けられるはずだ。ボクの醜態を見たらいくら鈍いお父さんだってボクらの関係に気づいてしまうかもしれないからな・・。』
 どうやら父とヒカルは中に入っていったようである。
「うわぁ!すごい!」
というヒカルの声が聞こえた。あまりの屈託のない歓声に、アキラは苦笑いした。銭湯までの道すがら、ヒカルが何かをじっと考えていたのはアキラにはすぐにわかった。少し下を向いて時々ちらりと見える横顔にキラッと光る物があった。多分また思い出して泣いていたのだろう。
『ちょっと言い過ぎたな。進藤をあんな風に不安にさせたのは元を正せばボクの責任なのに。きっとボクが不安にさせるような行動をとっているんだ。仕事が忙しかったり、学校があったりして、十分に進藤との時間をとってやれていないし、最近はボクがあの事にこだわりすぎて常に冷静を欠いているし。不安に思うのも当然だ。確実に以前とは違う態度しかとれなくなっている。好きだという気持ちをちゃんと表せなくなっている。臆病者だ。ボクは。』
 触れればあの夜のヒカルの身体の感触を全身で思い出してしまうせいもあって、最近まともに抱きしめてやることもなかった。視線ははずしぎみだったし、甘い時間を持ってやることはなかった。アキラはヒカルが一人だった時間を、そんな淋しい事を考えて過ごしているなんて、これっぽっちも察してやれなかった自分の器の小ささを悔いた。
『風呂が終わったら・・家に帰ったらきちんと話そう。進藤がボクの愛の量を量っていたとしても、疑っていたとしても・・いいじゃないか。疑われたらその都度解消していけばいい。ボクはいつも進藤の気持ちを考えてやることが苦手だ・・。自分の気持ちだけを押しつけるのが愛ではない。相手を受け止めてやることが一番大事じゃないか。』
 今まで子供っぽくないとか言われて大人と同じような受け答えをして、人とつきあってきたアキラだったが、いかにそれが上辺だけのものだったか、今更ながら思い知らされている。初めて本気で好きになって、本気で守りたい、一緒にいたいと思った時、どうしたらうまく気持ちが伝わるのか、常に手探りだった。幸いだったのは初めから両思いだったこと・・それでずいぶん救われていた。
『とりあえず今はこの風呂が無事に終わることだけ専念しよう。』
 アキラは自分を勇気づけるようにぐっとタオルを握りしめた。
「あら、ぼっちゃん。」
 いつの間にか番台のおばちゃんが戻ってきて声をかけてきた。
「もう入られたかと思ってましたよ。それにしてもおひさしぶり。大きくなられて。」
「あ、はぁ・・。」
「そんな格好では風邪ひきますよ。早く入った方が。」
 アキラは自分が腰タオル一丁の姿だということにハッとなった。小さい頃から知っているおばさんだけに妙にはずかしい。
「そ、そうですね!じゃっ。」
「あ、そうだ、ぼっちゃん。今度うちのじいちゃんの米寿のお祝いに、塔矢先生と一緒に指導碁に来てくださるそうで・・。」
「えっ?」
 初耳である。
「じいちゃん、楽しみにしておりますよ。その日は近所の碁好きのもんも呼んでもいいですかねぇ?」
「は、はぁ・・。」
「それは良かった。みんな喜びます。」
 なにかよくわからないが、ニコニコ本当に嬉しそうなおばさんに否定の言葉は言えず、アキラはあやふやな返事をしておくのだった。



                     
                           
                       

TOPへ