ねこ猫ヒカル
第4部
【7話 あふれる関係】
ずいぶん遅れて、アキラは浴場へ入ってきた。
ヒカルは父と並んで洗い場に並んで座りながら、アキラの様子をうかがった。
アキラは二人をちらっと見て、わざわざ二人とは背中合わせになる洗い場を選んだ。
『こっちにこればいいのに・・。塔矢の意地っ張り!』
ヒカルはアキラのあからさまな避けようにムッとした。
『こんな広いお風呂、オレ達しかいないのに、わざわざあんな遠くで一人でさ。そんなにオレが嫌いになったの?』
そう考えると今度はしょんぼりと猫耳を伏せた。
隣でヒカルの感情の変化を感じ取った父は、ヒカルにざばっとお湯をかけた。
「うわぁぁっ。」
ヒカルは驚いて首を振って水滴をとばした。
「お父さん、何すんの!」
「ははは。ちっとも洗っとらんからだ。なんなら洗ってやってもいいが?」
「えっ。お父さんが?」
ヒカルが目を丸めた。父はいつも必要以上にはヒカルにかまってこないところがあって、こんなに面倒見がいいのは初めてだった。
「私だって、アキラが小さい頃には一緒に風呂に入って頭を洗ってやっていたんだ。アキラのやつ、今は大人ぶってはいるが、小さい頃は髪を洗うのが苦手でな。目にシャンプーがしみると言ってよく泣いたものだ。その点、私が洗うと目に入らないと言って、よく一緒に入ったものだ。」
「へぇー。」
ヒカルはアキラの小さい頃を想像してほんわかした気持ちになった。でもすぐに現実に帰ってアキラの方を返り見る。ヒカル達の会話はよく聞こえているはずだ。アキラは洗面器にお湯を入れていたが、いっぱいになっても蛇口を閉めずにぼんやりしていた。多分ヒカル達の会話に聞き入って、水が出っぱなしな事を忘れているのだ。
それに気づいて、ヒカルはちょっと嬉しくなった。
『オレのこと、ちゃんと気にしてくれてる・・みたい!』
思わずにんまりと笑ってしまう。
「で、どうだ?髪を洗ってやろうか?」
「ううん。いい!オレ、自分で洗えるようになったもん。」
「そうか?」
父は心底残念そうな声を出した。実は銭湯行きが決まってから、父はヒカルの髪を洗ったり、背中を流したりして、ヒカルが喜ぶ顔を見たいと思っていたのである。そして、ヒカルの父に対する株を上げておいてから、おもむろにヒカルの従者の碁の強いという猫と碁を打たせてもらえないか頼むつもりだったのだ。
「いや・・遠慮しなくてもいいんだぞ。せっかく銭湯に来たんだし・・な?いつもアキラに洗ってもらったりしているんだろう?」
「前はね。最近は自分で洗ってるもん。それに・・・。」
ヒカルはまたちらっとアキラを見て、言った。
「お父さんに洗ってもらうと、塔矢がやきもち焼くかもしれないから!」
ガランガランガラン
アキラが派手に洗面器を床に落とした。その音で父もアキラが怒りがおさまっていない振りをしているとわかった。
「そうだな。」
父は短くそう言うと、
『アキラも意外と子供っぽいところが残っているじゃないか。自分が拾ってきた猫を大事に思ったり、自分以外の者が手をかけるのを嫌がったり・・。かわいいもんだ。そういう感情面に乏しいかと思って心配していたが、猫が来てから変わったな。ペットを飼うと情緒豊かになるというのは本当だな。』
と、息子の成長を感じて、ふっと薄く笑った。
実際には息子は拾ってきた猫に対して、普通の感情以上の感情を持ち、表現し、精神的にも肉体的にも繋がろうとしているなどとは夢にも思ってない父であった。
その後もアキラはわざとらしく遠くの湯船に入ったり、目を合わせないようにして、さっさと浴場から出ていってしまった。
「あっ。」
と、ヒカルも一緒に出ようとすると、父は肩をつかんで湯船に引き戻した。足を滑らせて、ヒカルは絶妙の温度のお湯の中にばしゃんとすっころんだ。
「ぷはぁ!もうお父さん、やめてよー。」
「肩まで浸かって百数えないと出てはいけない。」
「えー、なんでー。塔矢が帰っちゃうかもしれないじゃん。オレも出なきゃ。」
「大丈夫だ。アキラもそう怒っていないようだし、せいぜい脱衣所で待っているくらいだろう。」
「そうかな?」
「そうだ。まちがいない。」
父の自信に満ちた様子に、ヒカルはおとなしく肩まで湯船に浸かった。
湯が波打って、タイル張りのへりからざざーっと流れていく。ヒカルはキラキラ光りながら流れていくお湯を見ながらつぶやいた。
「こうしていっぱいになってもあふれた分はどんどん流れていっちゃうんだね。」
「そうだな。一定の量しか入らないからな。」
「心もそうなのかな?」
「心?」
思いもかけず哲学的な事をヒカルが言うので、父は驚いた顔をした。そして、少し考えて、
「そうだな。心と言っても無限ではないからな。いろいろなものがあふれるだろう。嬉しさや悲しみ、怒り・・いろんなものがあふれる。」
「それって淋しいね。悲しいとか淋しい気持ちはあふれるとどんどん淋しくなるし、嬉しい気持ちはあふれさせたくないのに、全部持っていたいのにどんどんあふれてしまうなんて。」
「そうでもないぞ。」
「どうして?」
「悲しい気持ちはあふれさせることでいつか忘れることができる。そしてそれを乗り越える強さを手に入れられる。嬉しい気持ちはあふれればあふれるほど自分を豊かにしてくれる。どちらもあふれて損はない。本当に怖いのは、すべてが足りないことだ。何も感じない何も感動しない、何も嬉しくない・・そんな穴のあいた風呂釜のように湯が入ってもすべて下から流れ出てしまう。自分で湯が注がれていることさえ気づかぬ間にすべてが出ていってしまう。そんな足りない人生の方が怖い。」
「・・難しいね。」
「まぁ、まだ猫にはわからなくてもしょうがない。お前はまだ小さい。これからわかっていけばいいさ。アキラと一緒に楽しく生活していればおのずとわかるはずだ。アキラはお前をとても大事にしているだろう。誰かに大事にされるということは何物にも代え難いよく肥えた地をあらかじめ持っているということになる。そこから自然に芽が出るはずだ。信頼する者同士がお互いに嬉しい気持ちを与えあえれば、どんどん泉のように湧いて出る。もっともっと嬉しい気持ち、お互いを思いやりあえる気持ちがな。」
「お父さんの話は難しいけど、なんかオレ、元気出てきた。つまりぃ、塔矢と一緒に幸せに幸せに暮らせば、嬉しいことはもっと嬉しくなるし、悲しいことはいつかなくなるって事だよね。」
「まぁ、そうだな。お前は気持ちが綺麗だから、思ったように行動すればいい。あふれることを怖がらず行け。自信を持っていいんだぞ。」
「わかった!オレは不安になんてなってる場合じゃないんだ。幸せに幸せに暮らせるようにオレ自身ががんばればいいんだ。そうすれば、いつか悲しいとか淋しいとかも平気になって、お母さんみたいにどっしり構えられるんだね!」
「ん?お母さんみたいにどっしり?」
父はひっかかったが、ヒカルがいつものように元気なヒカルに戻ってきたようなので、あえて聞きたださなかった。
「お父さんとこうしてゆっくり話したことなかったけど、楽しかった。まるで佐為と話しているみたいだったよ。」
「佐為?佐為というともしかして、碁の強い・・。」
「そう。オレの教育係!今度会ったらお父さんと佐為はそっくりだって言おっと。」
「そ、その佐為とやらが、こっちに来た時に会わせてもらえないか?いや・・私に似ているとは興味があるからな。」
父は素直に「碁を打たせて欲しい」とは言えずにしどろもどろの付け焼き刃的理由を作り出した。
「いいよ。」
ヒカルの嬉しい返事に、父の胸は恋をする乙女のようにきゅーんと鳴った。
「もう百経ったよね?オレ、出ていい?」
「ああ。」
ヒカルは父の返事も半分に勢いよく湯船から出た。
「おい。しっぽを隠して行けよ。誰かいるかもしれないからな。」
「わかった!」
ヒカルはしっぽを腰に巻き付けて、タオルでよいしょっと隠し、駆けていった。
「猫もああ見えていろいろ考えているんだな。いやはや、しかし、佐為という猫に会える日が待ち遠しい。なるべく余分な仕事を減らして家にいるようにしなくてはな・・。留守の時に来たんではなんともならん。」
父は来る日を想像して興奮し、ポッと頬を赤らめた。
一方ヒカルは慣れない滑る床に足をとられないように注意しながらアキラのいる脱衣所に向かった。
『オレ、これからはもっと、「塔矢のこと、大好きっ!」って伝えまくることにする!大好きがあふれたらあふれた分を全部塔矢にぶつけるんだ。そうしたら塔矢もオレにあふれた分をくれるはず。そしたら塔矢ももっとぎゅっとしてくれて、もっとチューってしてくれて、もっともっと幸せに幸せになるんだ!』