ねこ猫ヒカル
第4部
【8話 駆け出す想い】
「塔矢ぁ!」
ヒカルは引き戸を開けて、きょろきょろと脱衣所を見回し、アキラを見つけて突進した。
「うわぁぁっ。ちょっと待て!進藤!」
アキラはヒカルの肩をうまく両手で阻み、ずぶぬれのまま抱きつかれるのを防いだ。こっちはもう服を着ている。
「そのまま出て来ちゃ駄目だろ。床が水浸しになる。」
「そうなの?だって、塔矢がさっさと行っちゃうからしょうがないじゃん。」
口をとがらせたヒカルを見て、アキラはため息をつく。
「・・人の気も知らないで・・。」
「何?何を知らないって?いつもちゃんと説明してくれない塔矢が悪いんじゃん。銭湯の入り方も全然教えてくれなくてさ。つんつんしちゃってさ。」
「キミだってつんつんしてただろ。」
「つんつんなんてしてないもん。勝手に怒ってるのは塔矢だけだろ。塔矢が悪い。」
悪い悪いと言われてアキラも黙ってはいられず食いつく。
「キミだって話がしたかったら話しかけてくればいいのに、お父さんと仲のいいふりなんかして・・・悪いがお父さんに髪を洗ってもらうくらいで、ボクは嫉妬したりなんかしないからな。」
「・・ふーん。やっぱり聞いてたんだ。オレ達の話。」
ヒカルは、にぃっと笑った。水滴をとばしながらさらにアキラの顔に顔を近づけた。
「誰もいないよね?」
ヒカルはそうつぶやいて、さっと背伸びをし、アキラの唇にキスをした。
「!」
思いもかけないヒカルの行動に、アキラの心臓はまさに口から飛び出るかというほど跳ね上がった。そして、目を見開き一瞬呆然としてから、我に返って周りを見渡す。番台にも目に見えるところには誰もいないのをきょろきょろと確認して、全力疾走でゴールに入った駅伝選手のようにふにゃりと脱力し、この置き場のない身体の拠り所をロッカーに求めた。
「およ?どうしたの?塔矢ぁ。」
へたっているアキラにヒカルは明るく声をかけてくる。
「どうしたもこうしたも・・。」
と言いながら、おかっぱの髪の間からちらっとヒカルを見やって、ようやく目の前の現実に気づく。
風呂上がりで高揚したピンクの肌を、キラキラと真珠のように水滴が無数に飾っている。腰にかけたタオルはもちろん濡れていて、ぴたっと身体に張り付いている。しっぽをはじめ、隠すべきものがちっとも隠れていない。直接見えていないだけで、手に取るように中の様子がわかる・・というかうっすら透けている。しまってはいるがなめらかな弾力を感じさせる魅惑の白い太股がアキラの目を釘付けにする。
ドクンドクンと血の流れる音が妄想の扉が開く音と重なった時、がらっと戸が開いて、
「なんだ。猫はまだ拭いてないのか。湯冷めするぞ。」
と父の無粋な声が邪魔をした。いや、助かったと言うべきか。
「はーい。」
ヒカルはくるっときびすを返して、何事もなかったようにあっさりと、父と反対側のロッカーへ行ってしまった。一人取り残されたアキラは手のひらで顔を覆った。
「ボクは・・ほんと・・情けない!」
アキラは何度もロッカーの冷たい扉に頭をたたきつけるのであった。
「というわけで、指導碁をと言われたのですが、お父さんはご存じですか?」
すっかり着替えた男性一行は、なかなか出てこない母を待っていた。
「いや。多分明子が約束したんだろう。銭湯貸し切りのお礼として。」
「ああ、なるほど。」
父とアキラが会話する中、ヒカルはぐびぐびとフルーツ牛乳を飲んでいた。父に習った正しい湯上がり牛乳の飲み方を忠実に守り、腰に手を当てて足は肩幅に開き、一気に飲む。
「ぷっはー!もう一杯!」
「進藤、飲み過ぎだよ。もう3本目じゃないか。」
「だっておいしいんだもん。」
ヒカルは空になった牛乳瓶を名残惜しげに眺めた。
「駄目ったら駄目だ。もうおしまい。」
「えー。」
父はすっかり険悪じゃなくなった二人を苦笑いしながら眺め、ポケットから家の鍵を出した。
「お前達、先に帰っていなさい。私は明子を待っているから。身体が暖かいうちに家に戻った方がいい。」
父はアキラに鍵を渡し、
「帰り道、もうけんかはするんじゃないぞ。」
と、念を押した。
外に出ると意外と寒かった。頬を冷たい空気がなでると、肩をすくませてしまうほどだ。もうすっかり冬なのだ。
「ちょっと寒いね。」
そう言って、ヒカルは白い息を吐いた。アキラは、
「あ、でも星が綺麗!」
とちらちらする白い星々を指さすヒカルの横顔を見て、ふと思った。
『去年の冬にはまだ進藤はいなかったのだ・・。』
と。そして感慨深い気持ちになる。
『外で見る進藤の顔。コートを着ている進藤・・。ボクの知らない進藤がまだまだこんなにあるなんて。今日の進藤の告白だってそうだ。ボクは「自分が進藤を愛している」という事実だけで傲慢にも「進藤が何を思っているか」全部わかっているつもりになっていたんだ。進藤がいろんな気持ちを持つのは当たり前のこと。だって、進藤は進藤なのだから。ボクとは違う。だから惹かれている。』
アキラは歩き出した。ヒカルもそれについて歩き出す。住宅街の車1台通るのがやっとの通りを、街灯がちらちらと誰もいない暗闇をほのかに照らす。
『「もう半年も一緒に」じゃない。「まだ半年」なんだ。まだまだこれからお互いにもっともっと知っていくんだ。そしてもっともっと好きになっていく。今はボクも好きという事実が膨らむと本能的な行動に走りがちだが、それもだんだんうまく処理できるはずだ。そしてもっと不器用にでも進藤に伝えていく事が大事なんだ。進藤の不安だって、ボクの愛で埋めてみせる。こうして一緒にいることは・・奇跡のようなことなんだ・・。進藤は猫の国で過ごし、ボクは全然違う世界で過ごし・・本当なら出会うはずもないボク達・・。でも出会った瞬間からお互いに惹かれ合った。別々の人生が出会い、そして一つになりつつある。同じ道を歩ける幸せを忘れないようにしよう。』
アキラは手を伸ばした。歩くヒカルの手をさっと捕まえ、きゅっと繋いだ。
「塔矢・・。」
しかし、ヒカルは3歩歩いてさっと手を離す。
「?」
アキラは一瞬ひるんだ。拒否されたのかと思ったのだ。しかし、ヒカルは淡い光の中でうっすらと笑みを浮かべている。そして、
「塔矢も手袋とって。」
と、シマシマの手袋を外した。
「そのままの塔矢の手と繋ぎたい。」
「わかった。」
アキラはすぐに手袋を外した。そして二人は指を絡めるようにしてお互いの手を暖めあった。そこからなにか不思議なパワーが生まれているような気さえした。
「あったかいね。」
「ああ。」
二人はまた歩き出した。ヒカルはアキラの手をきゅっと握る。
「塔矢。オレ、塔矢にオレの気持ちがどれだけあるか、塔矢だってわかってないって言ったでしょ。」
「ああ。あの時は怒ってしまったが、よく考えれば確かにボクはキミの気持ちをわかってなかった。ごめん。」
アキラは素直に謝った。するとヒカルがくすっと笑って言った。
「違うよ。塔矢はオレの気持ちなんてわかってるに決まってるんだ。わかってないって言ったのは・・オレが今いない誰かに誰かにやきもち焼いちゃうくらいに・・・塔矢のことが好きって事!」
「進藤・・。」
「オレ、塔矢の好きを疑った事なんてないよ。だって塔矢はいつもオレを大好きでいてくれるって空気でわかるもん。そして塔矢もオレが塔矢のこと大好きだってわかってくれてるでしょ?それで十分のはずなのに、オレがそれだけじゃ満足できない贅沢者なの。オレこそ、ゴメンね。」
ヒカルは繋いでいない方の手もアキラに触れたくて、そっともたれかかって腕に絡めた。
「帰ったら、ぎゅっとしてくれる?」
アキラはすぐにでも抱きしめたい気持ちを抑えて、
「ああ。」
とクールに言ってみた。
「いっぱいだよ。いっぱいぎゅっとしてよ。」
「わかった。」
「・・・ぎゅっとしてくれたら・・特別にペロペロするチュー、してもいいよ?」
もじもじしながらヒカルがそんなかわいい事を言うので、アキラのスイッチが入った。
「進藤。走るぞ!」
「えっ!」
「全速力だ!進藤!」
アキラはヒカルを引きずるようにして一目散に家を目指した。
もう寒さは微塵も感じたりしていない、熱い熱い二人なのだった。
--WEB版第4部 完--