ねこ猫ヒカル
【5話 寂しいの】

 ヒカルがアキラの家に来てから、5日が経った。
 最初困惑気味だった父も、アキラの学校に行っている間、あいている時間にヒカルと碁を打ったりして、すっかり家族としてなじんできていた。碁を打った最初の日・・拾ってきた次の日は土曜日だったのだが、
「おい!明子!アキラ!」
と、普段絶対家の中を走ったりしないのに、あわただしげに茶の間にきて、アキラと妻明子に、嬉々として、
「この猫、いやはやなかなか。力はアキラよりは随分下だが・・面白い手を打つぞ。」
と、興奮して話したり、すっかりうち解けたようだった。
 母は元々ヒカルを気に入っていたが、洗濯物を干していると、庭先を蝶を追いかけたりしてはしゃぐ姿にますますメロメロになっていた。そして、2日に1回はヒカルの好きな魚料理をメニューに加えるのだった。
 アキラはアキラで、人間とは恐ろしいもので、1日目にあれほど動揺していたお風呂も、一緒に寝るのも1週間たてば平気になっていた。とはいえ、やはり、真っ裸で抱きつかれたり、ゴロゴロなつかれて顔をすりすりされたり、手や顔を舐められると、相変わらずドキドキするのだが、そのドキドキも随分自分で制御することができるようになっていた。
 水曜日・・その日、アキラは手合いがあって、名古屋へ出張だった。日帰りの予定だったが、思ったより時間がおして、泊まることにした。
「お母さん、うん・・宿は大丈夫。近くのホテルがとれたから・・。うん。明日の朝の新幹線で帰るよ。」
 母に電話をして、手短に用件を伝え電話を切った。静かなホテルの部屋で、アキラはなんだか居心地が悪くて、テレビをつけた。
「前は静かなのが心地いいくらいだったのに・・進藤が来てからかな?騒がしいのが当たり前になってるから、なんだか、静かなのが落ち着かない。」
 つけたチャンネルでちょうどペットの番組がやっていた。いろんなお宅の自慢の猫や犬が登場し、個性のある癖やチャーミングな癖などを披露している。
「・・同じ猫でも、うちの進藤は特別だから・・。くすっ、でもああ、こんな事するな。うんうん。」
 アキラは、猫の仕草と、ヒカルの仕草を比べて、一人でくすくすと笑った。笑っていると、急にむなしい気持ちが襲ってきた。
『・・・元気かな?進藤・・・。』
 元気も何も、今日の朝別れたばかりだ。元気に決まっている。それでも、なんだかアキラは胸騒ぎがした。だんだんテレビの画面は見ているものの気もそぞろになってきた。
『今日は・・一人で部屋で寝るのかな?寂しがりだから・・一人でなんて寝られるだろうか。お母さんが一緒に寝てくれればいいけど・・でも・・進藤って変に気丈なところもあるからな・・。案外一人で寝ようとしたりして・・布団の中で一人で泣いていないだろうか・・。しまった・・無理してでも帰るべきだったか?』
 アキラは泣いているヒカルや、寂しそうにしょんぼりしているヒカルを思い浮かべて、さーっと血の気が引く思いだった。急いで、テレビを消して、電話をかける。
  ルルルルル
 呼び出しの音がやけに長く感じる。母が、のんびりした声で
「はい、塔矢でございますけれども。」
と、言い終わらないうちに、アキラは、
「し・・進藤は?進藤はどうですか?」
と、叫んでいた。電話も向こうの母は驚いた様子で、
「どうしたの?アキラさん。」
「進藤は・・あの・・進藤はどうしているんでしょうか・・。」
 母の声を聞いて、少し冷静になったアキラは、かぁっとした。自分はどうしてこんなに動揺しているのかと恥ずかしくなったのだ。
「ヒカルちゃん?さっきお父さんと碁を打ってたわよ。なぁに?代わりましょうか?」
「いえ・・いいんです・・。ちょっと気になったので・・。」
「あ、今お風呂から上がったみたいよ。ヒカルちゃーん!」
「え?お風呂は進藤一人で入ってるんですか?」
「そうよ。アキラさんがいないから、頑張って一人で入ったのよ。帰ってきたら褒めてあげてね。」
「ええ・・。」
 お風呂に一人で入ったと聞いて、アキラは少し寂しい思いがした。あれほど、最初一人で入ればいいのにとか思っていたのに、しょんぼりしてしまう自分をげんきんだとますます恥ずかしくなる。
「おかしいわね・・。ドアが開いた音がしたと思ったんだけど・・。」
「いえ、お母さん。代わらなくていいので・・。切りますよ。」
「ちょっと待って、え?きゃーー、ヒカルちゃん!!!!」
 母が電話口で叫んだ。そうして、ばたばたと足音が聞こえる。
「ど、どうしたんですか?」
 アキラは受話器を耳に押しつけるようにして、向こうの様子を探ろうとした。どうやら、母は受話器を放りだして、どこかに行ってしまったようである。しかし、すぐに戻ってきた。アキラは、ドキドキしながら、
「どうかしたんですか?」
と聞いたが、母は、
「アキラさん、ごめんなさい。切るわよ。」
と、一方的に切ってしまった。ツーツーツーという音がむなしく受話器から聞こえる。
 アキラはそれでも受話器を持ったまま、青ざめた。
『何かあったのか・・進藤に何か・・。』
 アキラは考える間もなく、ものすごい早さで荷物を手に持つと、ロビーへ急いだ。
 フロントに駆け込んで、息せき切って、
「すみません。今から東京に帰りたいんですけど・・何か方法がありませんか?」
 とはいっても、もうとっくに新幹線の最終は出てしまっている。だから泊まったのだ。ホテルマンもアキラの尋常ならぬ様子に驚いて、
「深夜バスなら・・でもつくのが明日の朝になりますよ。確か5時頃・・。」
「深夜バス・・。」
「今日の分の席が余っているか問い合わせましょうか?」
 しかし、安くて人気の夜行バスだ。もうすでに満席だった。アキラはがっくりと肩を落とした。
「深夜列車もありますが・・ずっと電気がついているし、座席も倒せないので眠れませんよ。明日の朝新幹線で帰られた方が疲れないと思いますが・・。」
「かまいません。一刻をあらそいます。なるべく早く帰りたいので・・。」
「はぁ。」
 ホテルマンは深夜列車の空席を確認して、そして、席をとってくれた。
「今日の0時5分発です。明日の朝5時頃に新宿に着きますよ。まだ、1時間くらい余裕がありますから、それまでお部屋で休まれては?」
「ありがとうございます。でも・・いてもたってもいられないので・・チェックアウトします。」
 アキラは、そそくさとチェックアウトして、駅に急いだ。


 深夜列車なんてはじめてだったが、アキラの心は千々に乱れて、周りのことなど気にならなかった。電気がつけっぱなしでも、座席が倒せなくても構わなかった。どうせ眠れやしない。真っ暗な中を素早く飛んでは消えていく街の灯り。それに視線を漂わせながら、アキラの目にはヒカルの顔しか思い浮かばなかった。笑ったり、甘えたりするかわいいヒカル。アキラにひっついて離れないヒカル。しかし、体温の暖かさを求めていたのは猫のヒカルだけではないことを、アキラは思いしった気がした。
『ボクも・・進藤の体温に安心していたんだ。』
 その気持ちよさを想像すると、ぽうっと体が熱くなった。いつも幸せという名のまどろみの中で安らぎを受け取っていたのは自分の方だった。
『抱きしめたい・・。』
 アキラは、素直にそう思った。いつも抱きつかれてばかりの自分だが、今度は自分からヒカルを抱きしめてみようと思った。
『そうしたら・・進藤はどんな顔をするだろう。喜ぶかな?驚くかな?』
 ヒカルの反応を思い描きながら、ますます早く帰りたい想いがつのるのだった。


 朝6時。塔矢アキラは自宅の門にたどり着いた。新宿についたものの始発電車がまだだったので、タクシーで自宅へ急いだのだった。
 普段きちんと閉める門を、開けっ放しで、アキラは玄関まで続く石畳を小走りに走った。
  ガタッ
 玄関はまだ閉まっていた。アキラはあわててドアベルを押した。
  キンコーン
 家の奥の方でチャイムが鳴っているのが聞こえる。6時なら、母も父もいつもなら起きているはずだった。ところが、なかなか誰も出てこない。アキラはいらいらして、庭に回った。父と母は1階に寝室がある。
「お父さん!お母さん!起きてください!」
 アキラは、縁側のガラス戸をとんとんと叩いて、大きな声で呼びかけた。すると、障子がすっと開いて、中から眠そうな父が顔を出した。
「なんだ、お前。なんでこんな朝早くに・・。」
「帰ってきたんです!開けてください。」
 父は、ガラス戸を開けた。アキラは、急いで上がろうとしたが、あまりにあわてているため、靴がうまく脱げない。ようやく靴を足からはがして、ポンポンと庭に投げ捨てる。
「おいおい。何をそんなにあわてているんだ。」
 父は、普段見たことのないアキラのあわてぶりに唖然とした。普段はいやというくらい何事も優等生であるのに、こんな靴を投げ捨てるなんて、子供の頃だってしなかったのだ。
 アキラはばたばたと階段を駆け上がって、自分の部屋へ急いだ。しかし、そこにはヒカルの姿はなかった。
 駆けていったと思った息子が今度は息せき切って父の元戻ってきて、
「お父さん!進藤は進藤はどうしたんです?!」
と、父を問いつめた。父は、こほんと咳払いをして、
「お前・・まさか、猫が心配でこんな早くに帰ってきたのか?」
「そうです。それより、進藤は?まさか、怪我をして病院に入院したんですか?一人で風呂に入ったから・・転んで怪我をしたんじゃ・・・。どうしてお父さんが一緒に入ってやってくださらなかったのですか!」
「アキラ・・。」
「誰かが一緒に入ってやれば・・こんな事には・・。」
 アキラはくっと辛そうに顔を伏せた。肩が細かく震えている。父は、困った顔をして、
「アキラ、猫なら病院になど行っていない。」
「え?」
「家にいる。」
「え?本当ですか?」
「明子が一緒に寝ているよ。」
「なあに?こんな朝早く・・。」
 母が、眠い目をこすりながら、奥から出てきた。その腕には黄色がかった縞の猫が抱かれている。猫も抱かれながらむにゃむにゃと寝ぼけている。
「まぁ、アキラさん。おはよう。お帰り随分早かったのね。」
 母が、猫の頭を撫でて、
「ヒカルちゃん、起きて。アキラさん帰ってきたわよ。」
と、言った。アキラは、そっと、母の抱く猫に手を伸ばした。猫は耳をぴくっとさせて、ぷるぷると首を振ると、黄金色のまん丸な瞳をアキラに向けた。
「にゃ!にゃーん!!」
 猫は、母の腕からアキラの方に飛び移ろうとした。アキラもそれを受け止めようと、腕を伸ばす。
   ポン
 アキラに触れた瞬間、猫はヒカルの姿に戻った。
「塔矢ぁ!!」
 ヒカルは、がしっと、アキラの首に抱きついた。アキラは急に人間の姿のヒカルに戻ったので、勢い余ってよろけたが、父が背中をとっさに支えてくれたので、なんとか持ちこたえることができた。
「まぁまぁ。アキラさんに触ったらすぐにヒカルちゃんに戻ったわ。」
「あれだけ、私たちが色々しても猫から戻らなかったのにな・・。」
 父と母は、抱きつくヒカルを見て、苦笑した。
 アキラとヒカルは一緒に二階に上がって、母が出してくれた服をヒカルに着せた。ヒカルは、塔矢の手を離そうとしない。
「寂しかったよぅ。塔矢ぁ・・。」
「そうか。ごめん。」
「オレ、一人で風呂入ったんだぜ。」
「うん。聞いたよ。よく頑張ったな。」
「でも、入ってたら、俺一人なんだーって思ったらさ・・急に寂しくなってきて・・そしたら、猫に戻っちゃって・・。」
「うん。」
「塔矢、『うん』ばっかり!オレばっかり寂しくてずるい!塔矢は平気なんだもん!」
 ヒカルは冷静そうに見えるアキラに口をとがらせる。しかし、塔矢はふふふと笑って、ヒカルを引き寄せて、きゅっと抱きしめた。ヒカルは、アキラの肩に顔を埋めて、まん丸な目をさらにまん丸くした。アキラの腕がぎゅっと自分の身体がしなるほどに抱きしめてくる。
「ボクも寂しかった・・。」
 アキラがヒカルの耳元でささやくと、ヒカルはその声をもっと感じようと目を閉じた。アキラの暖かさが言葉と一緒に身体に染みこんでくるようだった。
 アキラの方も、ヒカルの呼吸を肩で感じて、とても満たされた気分になった。
「君がいないと・・ボクも平気じゃないみたいだ・・。」
 アキラはうっとりとつぶやいた。
 二人は朝食に呼ばれるまで、ずっとそのまま抱きしめ合っていた。

 その小さな別れの後の再会による幸せを二人が味わっていた同じ日に、あんな事が起ころうとは思いもしないで・・。

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