ねこ猫ヒカル
【6話 ふくらむ想い】

 猫の国・・それは人間界の平安朝の世界そのままだった。赤い柱が並ぶ宮廷内には、夢のような瑠璃色の池に魚の形の船が浮かび、十二単の女性の猫が詠を詠み合っている。
「もうしわけありません。」
 一段高くなったに鎮座している長髪の男が、部下の放った言葉に、いらついてぱちんと扇子を鳴らした。部下たちは、びくっと恐れる。長髪の男の怒りが扇子の音にのって自分たちを責めているようだった。
「まったく・・あなた達が揃ってこのていたらくですか・・。もう5日ですよ。」
 長髪の男はふぅとため息をついた。怒りに身を余してつくため息さえも雅だった。
「も、もうしわけありません。佐為の君。しかし・・。」
「言い訳はききたくありませんよ。伊角よ。」
 伊角と呼ばれた佐為の君の部下は、いっそう頭を低く下げた。その様子を横で見ていた伊角の同僚の和谷が、伊角の落胆を見て、なんとかわかってもらおうと、直訴した。
「佐為の君!しかし、ヒカルの君のいなくなったあの日、雨が降っていて唯一の手がかりである香りでさえ消えてしまい・・伊角さんはそれでも頑張って・・。」
「和谷!」
 伊角は、和谷を制した。
「どんな理由があろうとも、和谷よ。伊角とお前が二人揃っていて、どうしてヒカルの君を見つけることができないのですか。ヒカルの君とて、まだ子供・・。そうは遠くに行っていないはずなのに。」
「もしかしたら・・誰かに拾われたのでは・・。人間に・・。」
 伊角がおそるおそる口にした言葉は、周りの者のどよめきをかった。
「人間に!?」
「まさか!」
「ヒカルの君が喜んでついていくわけがない。きっと脅されて・・。」
「拉致されたのでは!」
 どんどん退っ引きならない意見が飛び交ってくる。さすがの冷静沈着な佐為の君も、表情を歪ませた。
「・・ありえるかもしれませんね・・。」
 佐為の君の言葉に一同はさらに騒然となった。佐為の君は決意をこめた瞳で立ちあがった。
「私が行きましょう。人間相手では、あなた達では役不足でしょうから・・。」


「あの・・進藤・・・。」
 アキラは赤くなって、振り返った。
「なぁに?」
 ヒカルはきょとんとする。アキラは、もじもじして、
「ついてこないでくれないか・・。」
「なんで?」
「いいから・・お母さんのところで待っててくれ。」
「だって、塔矢から離れたくないもん。」
 ヒカルは、アキラの服の裾を握ったまま離さない。
「でも・・ボクはお手洗いに行きたいんだ・・。」
「うん?」
「一緒に入るわけにはいかないだろ?」
「えー。」
「えーじゃない!」
 アキラは、ヒカルの手を素早く離して、トイレに駆け込んだ。今日はこんな調子で、朝帰ってきてからずっとヒカルはアキラと1秒たりとも離れようとしなかった。アキラは嬉しいやら困るやらで、大変である。
「ヒカルちゃん、お菓子あるわよー、こっちいらっしゃい。」
 母がお菓子でヒカルをつろうとしても、ヒカルはトイレの前で体操座りして、泣きそうになっている。
「大丈夫よ。アキラさんはすぐに戻ってくるから、ね?こっちいらっしゃい?」
「はぁい、お母さん。」
 ヒカルは、とことこと茶の間に向かった。母は、菓子皿に、お菓子を出してくれた。
「エビせんべいよ。ヒカルちゃん、きっと好きよ。これ。」
 ヒカルは、くんくんとにおいを嗅ぐと、目を輝かせた。
「これ!これ!海の香り!」
「そうよ。おいしいわよ。」
「うわーい。」
 ヒカルはぱりぱりとエビせんべいを頬張った。
「あ!」
 トイレから戻ったアキラは、声を上げた。ヒカルの前から、エビせんべいののった菓子皿をひょいと取り上げる。
「にゃ!もっと食べるー!」
 ヒカルが取り返そうと、アキラが高く持ち上げた菓子皿めがけてぴょんぴょんと跳んだ。
「駄目!」
「なんでー?」
「お母さんも、寝る前に食べさせちゃ駄目じゃないですか。8時過ぎたら健康のために食べ物はとってはいけないって言ってたのはお母さんじゃないですか。」
「あら、そうだったかしら。」
 母はヒカルのたくさん食べる様子を見て嬉しいらしく、ついついお菓子などを与え気味である。アキラはそれを良くは思わなかった。寝る前に食べることで胃腸が弱って、ヒカルが病気にでもなったら・・と思うと気が気でないのである。
「進藤。さ、もう歯を磨いて、部屋に行こう。布団一緒に引くだろ?」
「うん・・。」
「今、物を食べたから・・しばらく碁でも打って、ゆっくりしよう。」
「うん・・・。」
 ヒカルはアキラが怒っていると思ってしょんぼりした。しっぽが床にだらりと下がっている。耳も伏せ気味だ。アキラもさすがにヒカルの様子に気づいて、耳の付け根を軽く撫でてやった。
「進藤。さぁ。」
 アキラはヒカルの手をとった。手を握られて、ヒカルの耳はぴくっとする。アキラの心が温かい手のひらから流れてくるようだった。
「塔矢、怒ってないの?塔矢の手、すごく優しい。」
「怒ってなんかないさ。」
 ヒカルは、手を繋いだまま、立ちあがった。そして、アキラの腕にあいている方の腕を絡ませ、ぎゅっと抱きしめた。
「お二階いこ!お母さん、おやすみなさい。」


 アキラとヒカルは布団をひいてから、碁盤を出してきて、碁を打った。パチ、パチと碁石の音が気持ちいい。碁を打ち出すと、ヒカルは全く態度が変わる。普段なら長い時間じっと黙っているなんてできないだろう。そんな甘えたくてしょうがない様子とはうってかわって、碁石を持つと、ヒカルは途端に集中力を見せる。
 以前、碁が終わってからヒカルがこんな事を言ったことがあった。
「塔矢の手筋の中に、塔矢をすごく感じることができて、それを追うのに一生懸命になるの。」
 塔矢は、その言葉を聞いて、正直なんだか嬉しかった。甘い感覚が心を締め付けたが、それが『愛しい』と思う気持ちだということを、今日初めてわかった気がする。あれほど、自分が動揺し、あせったのは、自分自身気づかないうちにヒカルのことがとても大事に思っている証拠だった。
「あー、うー。」
 ヒカルがしかめっ面をして、盤面を見つめてうなった。
「うー、負けました・・。」
 ヒカルは投了した。アキラは、ヒカルの残念そうな顔を見て、ふっと微笑んだ。悔しさをにじませた表情もまたかわいらしい。
「ここまではさー、オレ、勝てると思ったんだけど、塔矢が、ここに打ってくるから・・。」
 ヒカルは、邪魔な石をどけて、自分の敗因になったと思われる所を並べ直す。
「うん。今日はボクも負けるかと思ったよ。」
 アキラは、にこっと笑っていった。ヒカルは、その笑顔を見て、余計に口をとがらせた。
「ちぇー、塔矢は絶対思ってない。負けるなんて思ってないよー。オレ、これでも猫の国で結構な腕前だったんだけどなぁ・・。」
「ふふふ。でも、進藤って思いもかけない手とか打ってくるから、ボクも油断できないよ。ほら、ここなんか、こう打ってきたろ?これは面白かった。」
「にゅー。でも負けは負けだもん・・。」
「進藤はボクに勝ちたいの?」
「うん。勝ったら、塔矢にお願い聞いてもらうの。」
「お願い?」
 ヒカルは目を輝かせた。塔矢は不思議そうに聞き返す。
「進藤、そんなお願いなんて別に勝ってしなくてもいいんだよ?今言って。」
「ダーメ。勝って言わなきゃ意味ないもん。」
 ヒカルは、すっと立って、塔矢の横にちょこんと座って肩に頭をもたれかけさせる。。
「えへへへ。」
 笑っているヒカルの髪がアキラの頬をかすめる。猫耳がアキラの口元をちらちらした。この姿勢ではバランスが悪い気がして、アキラは思わず、ヒカルの肩に手を伸ばして引き寄せた。結果二人は密着している状態になる。アキラは急に客観的に自分のこの様子を頭に描いて、ドキッとする。なんだか、これでは、街でよく見るいちゃついている恋人同士みたいだ・・と・・。そう思いながらも、自分の腕は、どんどん強くヒカルを引き寄せる。
「塔矢?」
 ヒカルが、塔矢の腕の力に驚きながら、もたれかけさせていた首を上げて、塔矢の顔を覗き込んだ。
 ふと目があった。
 ヒカルはそのアキラの瞳にドキッとした。とぎすまされた真剣な目。囲碁をしている時とは違った張りつめた瞳でヒカルを見ている。
「と・・とう・・や?」
 もうヒカルの目はアキラの瞳に射抜かれた。金縛りにあったように指先さえも動かせなかった。
 塔矢の方は塔矢の方で、自分の意識ははっきりあるのに、それは別のところで他人のように自分を見ていて、ヒカルを引き寄せる自分を止めることができない。吸い寄せられるようにヒカルの丸くて大きな瞳しか視界に入らなくなり、
「もっと・・・もっと、進藤に触れてみたい・・。」
という、欲望ばかりが頭をぼんやりとさせた。
『ああ・・はじめて進藤に会った日・・風呂で感じたのはこの気持ちだったのか・・。』
 そんな風に冷静に自分を分析しながらも、これから自分が何をしようとしているのか・・見当もつかなかった。
 フッとあたたかくて柔らかい感触を感じる。その感触は、唇から広がって、アキラの身体に震えをもたらせた。うっとりと視線を落とすと、そこには驚いて目を見開いているヒカルの顔があった。
 急にアキラは我に返った。自分が何をしたか・・上気したヒカルの顔を見れば明らかだった。
「と・・と・・や・。」
 ヒカルはふるふると小刻みに震えていた。その唇は半開きでしっとりとしている。アキラは頭が真っ白になって、途端にかーっと体中の血が頭に上った。
「し・・進藤・・。えっと・・えっと・・ご、ごめん。」
 動転して思わず謝るアキラをヒカルはウルウルとした目で見つめている。
「ふえ・・。」
 ヒカルは自分の中で暴れる感情に驚いて涙があふれてくる。塔矢の唇が自分の中の何かを変えるのを感じたのだ。わけのわからない想いがヒカルの中で暴れ出していた。
 ヒカルは怖くなって、アキラにぎゅっとしがみついた。
「わ、進藤。」
 アキラは、ヒカルの頭を撫でてやった。ヒカルはいやいやをするように、塔矢の胸に頭を押しつけてくる。
 しばらく、その状態が続いて、どれくらい経っただろうか。ヒカルはしゃくりあげながら、うつらうつらとし始めた。泣き疲れたのだろう。
 アキラは、そっと、ヒカルを布団に寝かせて、涙を指ですくってやった。
「こんなに泣いて・・。ボクはなんであんな事を・・。」
 アキラは後悔でいっぱいになった。ヒカルの寝顔をしばらく見ていたが、どうも自分は眠る気になれない。少し頭を冷やそうと、窓を開けた。気持ちのいい風が部屋に流れ込んでくる。
「今日は満月か・・。気づかなかった。」
 月の優しい光が、アキラの上に降り注いだ。



「どうされました?佐為の君。」
 町中を疾走する猫たちの影が、動きを止めた。中でも艶のいい黒い毛の猫が、ハッと急に足を止めたのだ。
「感じます・・。」
 黒猫は、風をいっぱいに吸い込んで、目を閉じてそういった。
「間違いありません。これはヒカルの君の香り・・。こっちです!」
 黒猫は、タッと駆けだした。
「お待ちください。佐為の君!私たちには何も・・。」
「私には感じます。ついていらっしゃい。」
 満月に照らされながら、猫たちは黒い猫を先頭にものすごい早さで、住宅街を駆け抜けた。

前に戻る    次へ
                  

ネコTOPへ
ネコTOPへ