ねこ猫ヒカル
【7話 帰りたくない】
アキラは電気を消して、開け放たれた窓からはいる月の光に白く浮かぶ、ヒカルの姿を見ていた。ヒカルは、布団の端をぎゅっと抱きしめて、すーすー寝息を立てていた。
アキラは、ヒカルの涙の跡がきらきらと月の光に反射するのをぼんやりと見ていた。
『無邪気な寝顔だな・・。・・でも僕が泣かしてしまった・・・。進藤は・・起きたらなんて言うだろう。もう、僕のことが嫌いだとでていってしまうかもしれない・・。』
アキラは、瞳を揺らして後悔の念に身をゆだねていた。しかし、どうしてあんな事をしてしまったのかわからない。あれではまるで口づけではないか。いや、別の言葉を探しても無駄だろう。
ただ、愛しかった。愛しいと思う気持ちが、もっと深く愛したいという思いが性急な行動に出た。しかしヒカルにはアキラの心の内の嵐など、気づくはずもない。ヒカルにとっては突然の出来事で、アキラの強い思いが怖くなって・・そしてヒカルは泣いたのだ。アキラはそう思った。
『ボクのことを怖がるかもしれない。でも・・ボクには、またあんな事を絶対に進藤にしない自信がない。本当はもっと激しい気持ちが奥底にあるのかもしれない。それはまた進藤を怖がらせるだろう。・・ボクはこんなに弱い人間だったのか?もっと、自分をコントロールできると思ってた。しかし、それは買いかぶりだった。自意識過剰だ。』
アキラは、自分も泣きたい気分になった。こんな苦しい気持ちは初めてだった。息さえ浅く苦しかった。
『進藤が・・ボクを嫌うなんて・・考えたことがない。あれほどの無条件なボクに対する愛情が失われるのが怖い。これはボクのエゴなのか?』
アキラは、ヒカルの布団から出ている手を指先でなぞって、この暖かさが自分から離れるのを恐れた。大事にしたいだけなのに・・・自分がこれからヒカルを泣かせることになるかもしれないと自問自答した。
『何が正しい?この苦しい想いが本当なのか、優しく包みたいと願うこの気持ちが本当なのか・・。そして、どっちも一緒に叶えられることはないんだ・・。どっちかを選ばないといけない。』
しかし、考えれば考えるほど、胸が締め付けられた。
ガタッガタッ
窓の障子が、突然大きな音を立てた。アキラは、ハッとして振り返る。
窓の所には、月をバックにして、烏帽子をかぶった男が扇子で顔を隠して立っていた。
「!」
アキラは目を疑った。これはまるで、平安時代の貴族のような・・現代ではあり得ない格好だった。男の白い着物が月明かりにぼんやりと光沢を放っている。
「だ、誰だ?!」
そう叫んで、はっとする。男の烏帽子の両端にはネコの耳。黒とも紫ともとれる輝きをした毛で覆われている。猫の国の者だ。それならば、何をしに来たかはすぐに見当がつく。
「誰だ・・ですって?貴方こそ、我がヒカルの君を誘拐しておいて、ただではすませませんよ。」
男の顔から扇子がとり去られた。厳しい眼光で、アキラを睨む。
アキラはとっさに、布団で寝ているヒカルを背に隠すように男の前に立った。
「誘拐などしていない・・。」
「ほほう。我らがこれほど探しても見つからぬほどに、巧妙に隠していたくせに。」
男は、アキラにぐっと近寄って、アキラの肩越しにヒカルが寝ているのを確認する。
「返してもらいます。ヒカルの君を。」
男はアキラより遙かに上背があった。ここで力づくで阻止しようとしても、きっとアキラは負けるだろうと思った。しかし、ヒカルを渡すわけにはいかなかった。全身全霊の力を込めて、男にタックルをかける。
「・・こしゃくな・・。いまだ抵抗する気か。」
男は、アキラの腕を扇子でぴしっと叩いた。
「うっ!」
アキラは痛みに顔を歪ませたが、決して力は緩めなかった。
「う・うん・・・・。」
騒ぎに、ヒカルが目を覚ました。そして、目の前に繰り広げられている光景に目を見開く。
「ヒカル!」
「進藤・・にげ・・逃げて・・。」
塔矢が、ヒカルの猫の国での教育係「佐為」を賢明に抑えている。佐為は、ヒカルが目を覚ましたのを見て、さらに近づこうともがく。
「ええい!うっとうしい!この人間めが!」
佐為は、塔矢を力づくで振り捨てた。畳にアキラはうちつけられる。
「と、塔矢!」
ヒカルは、アキラの身を案じて、駆け寄ろうとしたが、ヒカルに近づく佐為の影に、視線を佐為に移した。
「佐為・・。」
「ヒカル。探しましたよ。さぁ、私と一緒に猫の国へ帰りましょう。」
佐為がさしだした手をヒカルは、ぴしっと手の甲で振り払った。
「!」
「オレ!帰らない!!」
ヒカルの反抗的な態度に、佐為はカッとなった。
「ヒカル!」
佐為は、ヒカルの腕をつかんだ。ヒカルは、無理矢理立たされても、なお、賢明に腕を取り返そうともがいた。
アキラは、焦った。このままでは連れて行かれてしまう。しかも力ではかなわない。何か・・何か手段はないか?!その時あるものが目に入った。
「ま、待て!」
ヒカルを小脇に抱えようとしている佐為に、アキラは叫んだ。
「しょ、勝負しよう!勝負して、ボクが勝ったら進藤は置いていってもらう。」
ネコが勝負好きだということは進藤を見ていればわかる。きっとこのネコも勝負を持ちかければしたがうと思った。
「ほほう。勝負ですか。おもしろい。」
案の定、佐為はのってきた。そして、きつく見すえながらも、口元に笑みを浮かべて、
「では、私が勝ったら・・ヒカルの君は連れて帰ります。良いですか?」
「ああ・・。」
アキラは、ぎゅっと拳を握った。
「で、何で勝負するのです?」
佐為は、閉じた扇子を口元に当てた。
アキラは、部屋の隅にある碁盤を指さした。
「碁で勝負だ!」
佐為は、にんまりと笑った。しかし、その表情はアキラからは扇子のせいで見えなかった。隣でヒカルが青ざめる。
「塔矢!塔矢!いけない!」
ヒカルが叫ぶように言ったがもう遅かった。
「碁で勝負です。さあ、どうぞ。貴方が好きな方の石をお持ちなさい。」
佐為は、ふふふと笑いながら、アキラを見おろした。その態度は威圧的であり、アキラをバカにしているようだった。