ねこ猫ヒカル
【8話 渡さない!】

「佐為の君は遅すぎやしないか。」
 庭で待機していたネコたちの間から、こそこそと声があがっていた。ここで待てといわれ、佐為だけが二階の窓の開いている部屋に入って、早20分が立っている。
「伊角様、佐為の君に何かあったのでは。はじめは騒がしかったが、今は水を打ったように静かになって・・。」
 不安そうに、下っ端のネコたちが、隊長である伊角に耳打ちした。伊角は、隣にいる第二近衛隊長の和谷と目配せした。和谷は、下っ端のネコたちに向かって言った。
「我々が乗り込む。お前たちは、ここで待機。合図があったら乗り込むように。」
 伊角と和谷は、屋根に近い木に登り、屋根に飛び移った。
「しかし、佐為の君はすごいよな。俺たちはこんな高いところ、木をつたわらないと無理だけど、佐為の君は一気に飛んだろ?」
 和谷が、伊角に耳打ちする。
「それに、飛びながら、人の姿になれるんだもん。ほんとすごいよ。佐為の君は。」
「そりゃあ、あの人は特別だからな。俺たちは人の世で人の姿になってもいわゆる裸になってしまうけど、佐為の君は扇子一降りで服まで召還してしまう。都にたくさんの優秀な人がいるけれど、あの人ほどの人はいないだろう。そんなお方に部下としてつける俺たちは幸せもんだよ。」
「ほんと。しっかし、静かだな。どうする?こっそり乗り込むか、不意をつくようにばっと乗り込むか・・。」
 伊角と和谷は窓の外でこそこそと話した。しかし、人の耳にはただネコがにゃーにゃー言っているようにしか聞こえない。伊角は黒い毛が人の髪のように見える黒白のブチネコ、和谷はこげ茶色のトラ猫。二人はネコの姿だった。
 伊角はうーんと考えて、
「こっそり乗り込もう。」
と、決断した。和谷は、こくりと頷きながら、
『伊角さんって、ほんと、ここ一番の時に地味だよな・・。』
と、思った。でもそんな慎重なところも和谷は本当は尊敬していた。


 窓にそーっと手をかけて、中を覗き込む。部屋の中からは、パチッと碁石の打つ音がした。
 見ると、佐為の君は、おかっぱ頭の人間の少年と碁を打っている。そして、おかっぱ頭の少年の後ろにヒカルの君。ヒカルの君は泣きそうな顔で盤面を見ていた。
「大丈夫そうだ。伊角さん、入ろうぜ。」
 和谷が、よっと窓の桟の上に飛び乗った。
「わ、和谷!」
 伊角が驚いた声を出したので、部屋の中にいた3人の視線が一気に二匹のネコに集まる。
「伊角!和谷!」
 ヒカルが、駆け寄ってきた。伊角と和谷は、深々と頭を下げ、
「ご無事で何よりです。ヒカルの君・・。」
と言った。しかし、アキラにはネコがにゃーにゃー言っているようにしか聞こえない。
「ネ・・ネコ?まさか、また猫の国の?」
 アキラが、目を丸くする。一体何匹のネコがヒカルを連れ戻しに来ているのか。
 ヒカルは、伊角と和谷を抱きかかえて、アキラの脇に座った。伊角と和谷は、ヒカルに抱かれながら盤面を見る。白が佐為だと言うことはすぐにわかった。容赦のない手で攻めている。黒もなかなかよく打ってはいるが、佐為の前にはかなうはずもない。佐為は猫の国で一番神の一手に近い男なのだから・・。
「あーあ、碁で勝負しちゃまずいだろ。佐為の君にさぁ・・。」
 和谷は、このおかっぱの少年が哀れにさえ思えてきた。アキラは、劣勢にいながらも、歯を食いしばって盤面を睨んでいる。
『どうしても負けられない。何か、何か手があるはず!』
 そういう意気込みが感じられた。そのアキラの顔を悲しそうに見るヒカル。伊角はその両方の顔をかわるがわる見て、そして盤面を見た。
『ヒカルの君とこの少年の間には、何か・・特別なものを感じる・・。深い信頼関係というか・・お互いを必要と思っているような・・。たった5日間で・・?まさか。』
 伊角は、ふと佐為の君を見る。佐為は表情こそ神妙だが、本当はすごく余裕で、その少年をこてんぱんにやっつけたいという思いが打つ手にあらわれていた。
「そろそろ・・投了したらどうです?」
 佐為は、冷静に言い放つ。アキラはキッと佐為を見すえた。
「塔矢ぁ・・。」
「さあ、『負けました』と言いなさい。あなたは私に勝負を挑んで負けたのです。いえ、貴方の実力ならもう数手打っただけでわかったはず。私と貴方の力の差を・・。」
 佐為は、扇子をぱちんと鳴らした。
「確かに・・あなたはたいしたうち手だ・・。しかし、進藤は渡さない・・。進藤だって、帰りたくないと言っている。」
 アキラは、絞り出すようにいって、抱いているネコごとヒカルを抱きしめた。抱きしめながら、佐為を睨む。
 佐為は、あきれたようにふうとため息をつく。
「まあ、まあ。人間というものは・・。平気で嘘をつくのですね。あなたは負けたらヒカルを渡すと言いましたよ。」
「佐為・・。」
 ヒカルが佐為の名前を呼ぶ。佐為は急に険しい顔から優しい顔になって、ヒカルに手を伸ばした。
「さぁ、ヒカル。一緒に帰りましょう。ね?人間界に来たのはただの好奇心からでしょ?今回のことは大目に見ますから。」
 ヒカルは、ふるふる小刻みに震えている。
「佐為。オレを連れ戻したいなら・・条件がある!」
「なんです?ヒカル。」
 佐為は笑顔だった。しかし、ヒカルの要求を聞いて目がつり上がる。
「塔矢も一緒に猫の国へ行くんなら・・。」
「駄目です!」
「じゃあ、帰らない!」
 ヒカルは、アキラにぎゅっとしがみついた。それを見て佐為はますます険しい顔になる。
「こ・・・こえー・・。」
 和谷は、思わずつぶやいて、ヒカルの腕をすり抜けて、距離をとった。伊角もそれに続く。とてもあの怒った佐為のそばにはいられないと思った。
 佐為は、急に扇子をぱっと開いて、よよよと泣き崩れた。
「ヒカル・・あなたはいつからそんな子になったのですか?私のことが嫌いですか?私を困らせて面白いのですか?ううう・・なげかわしや・・。なげかわしや・・。」
 それを見て、和谷は伊角にこそっと耳打ちした。
「あれ、絶対嘘泣き。」
 佐為は、しゃくり上げながら、扇子の影からちらっとヒカルを見る。ヒカルは困った顔をしていた。よしもう一息!とばかりに、佐為はさらに大げさに泣いてみせた。
「ああ、ヒカルが帰ってきてくれないなら・・私は入水自殺しますよ・・。だって、ヒカルが帰ってこないなら私の役目もないも同然・・。うう・・ヒカルはそんなに私のことが嫌いなんですね。ヒカルは私より、その人間をとるんだ・・。手塩にかけて育ててきたのに・・ひどい・・。」
「佐為・・。えっと、佐為のこと嫌いなわけないよ。いつも厳しいことばかり言うけど、それもオレのためを思ってだし、すごく感謝してるよ・・。」
 ヒカルは、塔矢から離れて、泣いている佐為に少し近寄った。
「でも、オレ・・塔矢のことが大好きなんだ・・。塔矢と一緒にいたい。駄目?」
「ならば、時々人間界に遊びにこればいいではないですか。時々なら許します。私だって鬼じゃないんですから。」
 和谷が、また伊角につぶやく。
「猫又だよな。鬼じゃないけど。大体入水自殺なんてしっこないよ。」
「和谷・・・。お前、佐為の君に聞こえたら半殺しだぞ・・。」
 佐為の名演技にヒカルはすっかりだまされていた。その身はアキラからどんどん離れていた。アキラがハッと気づいた時には、ヒカルは佐為の手の届く所まで来ていた。
 佐為が、扇子を顔からはずすと、そこにはチャンスを狙っていたハンターのような目があった。
   がしっ
「捕まえましたよ!ヒカル!」
 佐為は、ヒカルの腕をつかんで、自分の方へ引き、バランスを崩れさせた。
「進藤!」
 アキラも手を伸ばしたが、佐為の着物の大きな袖がヒカルをがばっと隠した。
「人間よ。今回の所はあなたを許しましょう。この碁に免じて。しかし、もう二度とヒカルと会うことは許さない。」
 ヒカルはもがいたが、後ろ向きに抱えられてはどうしようもない。
「佐為!お前、はかったな!また遊びに来てもいいって言ったじゃないか!」
「嘘も方便ですよ。ヒカル。さぁ、伊角、和谷、退散です。」
 佐為は、信じられない素早さで、窓に向かい、アキラを見てにやっと笑うと、かろやかに、夜の闇に消えていった。
「塔矢ぁ!塔矢ぁ!!」
 ヒカルの叫び声が、遠く消えていく。アキラは、部屋に一人残され、呆然とした。ヒカルのアキラを呼ぶ尋常じゃない声を聞きつけて、父と母が2階へやってきた。
 そこには、畳に何度も拳をたたきつける息子の姿があった。
「どうした?アキラ。」
「アキラさん?」
 アキラは、聞こえていないように、何度も何度も拳を振り上げてはたたきつけている。母が、思わず、アキラに駆け寄って、その手を制止しようとする。父は、部屋を見渡して、ヒカルがいないことに気がついた。
「猫が・・猫がいないぞ・・。」
 その父の言葉にようやくアキラは顔を上げた。
「・・・ボクが勝負に負けて・・進藤は連れ去られました・・。」
 そのアキラの厳しい瞳と、流れている涙と、絞り出すような声に、父と母は言葉を失った。

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