**目次**
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第1回 | 夢のクレヨン王国と原作:シルバー王女への思い | (97.11.3) |
第2回 | 夢のクレヨン王国と原作:アラエッサとストンストン | (97.11.8) |
第3回 | 革命とは何か:少女革命ウテナによせる想い | (98.1.3) |
第4回 | 歳:内海君誕生日おめでとう | (98.1.15) |
第5回 | ららら・曼陀羅〜晶子曼陀羅・影的感想〜 | (98・2.7) |
第6回 | ブラボー!!キャンデロロ! | (98.2.17) |
第7回以降はこちら |
第一回:夢のクレヨン王国と原作:
シルバー王女への思い(11/3)
さあいよいよ開国しました。影の国。
ここに来られた方は、無事鍵を見つけてくれた方ですね。え、あんなわざとらしくあったら、誰でもわかるって?
まあ、もうちょっと隠しても良かったのですが、あまり隠しすぎて、誰も来てくれないとちょっと悲しいし。
さて、前置きはこの辺にして、本題に入りましょう。
まず、夢のクレヨン王国についての正直な感想というか、(いや、今まで偽っていたわけではないのですが。)
思ったことを書きたいと思います。
まず、「アニメ夢クレが始まる」と初めて知ったのは、「クレヨン王国茶色の学校」の2巻の帯でした。
漫画がやっていることを全然知らなかったので、ものすごく驚き、さらに「シルバー王妃」が
「シルバー王女」になっていて、しかもその絵が全くお子さま(王女)だったので、
ちょっと「え?・・・」と絶句しました(笑)。
だって、私のような原作を読んでいた人はみんな同じだと思うのですが、
あの「マリ姉さん」が…あのお美しい「シルバー王妃様」が…。お子さまだなんて!
じゃあ、ゴールデン王様はどうなるの?「十二ヶ月の旅」では、ゴールデン王様が、妻の悪い癖に
ほとほと困り果てて、家出するのに、「王女」じゃ、誰が家出するの?
待てよ。クレヨン王国の歴代の王様は「ゴールデン」と決まっているから、
じゃあ、お父さんが家出するのか?それは無理があるな…。しかも王女が旅に出るときの
お供はどうするの?ユカちゃんが一緒に行くなら、同い年くらい同士の旅で、大変危険なんですけど…。
何か、ニワトリとブタのイラストもあるところを見ると、もしかして、これはアラエッサとストンストン?
…この二人がお供につくなら楽しそうだけど…って事はユカちゃんが出ないのね…。
何かどっちにしても淋しい…。
そんな思いがグルグルで、アニメの第一話をビデオにとって見ようとした時、とっても不安だった…。
しかし、そんな思いを、アニメのオープニングが、すでにぶっ飛ばしてくれました。
かわいい…綺麗…なんか楽しそう…。そして第一話。なかなかうまい所をついた作りで、
作り手の愛情が感じられました。エンディングも福永さんの詩(新十二ヶ月に出てくる詩)だし、
何か、自然を愛し、平和を愛し、やさしさいっぱいなクレヨン王国のイメージを、
決して損なっていなかった。
ユカちゃんは出てこないけど、まあ、確かに「シルバー王妃」に子供達が同感するっていうよりかは、
(その場合ユカちゃんに読み手はなるのだろうけど)「シルバー王女」が、
楽しく十二の悪い癖を直しながら、旅をしていった方が、感情移入は出来るかもしれないと思いました。
それに、この十二の悪い癖っていうのも、人が当たり前に持っているような癖ばっかりで、
誰もが、この物語を見て反省し、新しい発見をし、悪い癖も時にはいい癖になることを知り、
そして、最終的には、クレヨン王国に興味を持ってくれて、原作を読んでくれる人が
増えればいいなぁと思います。
そういう意図もあり、このHPを開設しました。いずれ、クレヨン王国のHPは作ろうと
思ってはいましたが、アニメ化は、私の重い腰を上げさせてくれる、いい機会になったと思います。
でも本当は内海君の方を1月までにと思ってちょっと始めたのが、どつぼにはまって
クレヨン王国の方ばかりがんばってしまったのですが。
内海君の方から来て下さってる方々すみませんです。ぼちぼちがんばりますので、
見守っててください…。気長に…。
原作の二人についてまず話すことにしましょう。
「可及的すみやかに」「永久に」
この二つの言葉は、ストンストンを語るのに、不可欠な言葉である。
ストンストンは、自分の中に「可及的すみやか」君と、「永久に」さんが住んでいるという。
その二人は常に同席し、何かが起こると、どちらからストンストンを支配する。
こう書くと、多重人格のようだが、実際はそういうことではなく、ストンストンは自分というものを正確に分析し、
自分の中には、急ぎたがる「可及的すみやか君」と、
のんびりと考え事をしたり、ぼんやりと、何かをゆっくりと感じ、今の状態を継続したがる「永久にさん」が、居るというのだ。
それは、実際何も考えねば、のんびりと「永久に」モードに入りがちだが、急がねばならね時は、
やはり「可及的すみやか」君をおこさねばならないという、自分を戒める感じでもいわれていることなのだろう。
この言葉を体内に刻んで生きているストンストンは、一種仙人みたいな、尊さがある気がする。
アラエッサは、ドジョウが好きで、ドジョウを飼う池をいつか持つ事が夢である。しっかりしているようにも見えるが、
結構短気なところもあり、人の言葉にむっとしたりする事が多い。しかし、強者には、とても弱く、弱者には優しい。
しゃれたことをいって、場をわかせたりもする。
二人とも、月のたまごの探検隊として成功を収めたあと、貴族の称号を貰い、
アラエッサは「ワシブサ伯」(鷲とハヤブサを混ぜた強そうな名前)、ストンストンは「ストンス伯」
と名をかえ、クレヨン城に用もないのに来たりしては、キラップ女史などに煙たがられている。
貴族になったからといって、二人に流れる「旅人の血」は、おとなしくなったわけではない。
二人は、安息の家や、身分を手に入れても、決して本当の自分を変えることなく、
たまに変に格好つけることはあっても、決して高飛車になったり、人を見下したりはしない。
マイペースに自分のしたいことや、刺激を求めて、旅に出たりもする。
二人は全然違う性格だけれど、二人はお互いを必要とし、お互いを尊敬している。
自分の足りないところを、相手がフォローし、相手の足りないところを、自分がフォローする。
そういう、理想の親友関係が成り立っているのだ。
そういう基本的な設定は、アニメの方でも変わっていない。
アラエッサは、しっかりしていそうで、シルバー王女に教育的指導をして、
いかにも人格者っぽくしているが、人情に弱く、人がいい。ストンストンのこともとっても大事にしている。
ストンストンは、ぼーっとしていて、食べ物のことしか考えていないようだが、
たまにぼそっと言う言葉は厳しいところをついているし、
はっきり物を言うために、誤解されやすいアラエッサをフォローしている。
アニメ版の方は、残念ながら、「可及的すみやか君」と、「永久にさん」は飼っていないようだが、
しかし言わないだけで、本当はもう持っているのかもしれないし、これから手に入れる(?)
かもしれないから、それも楽しみだ。
2週間「夢のクレヨン王国」が、休みだったので、ちょっと淋しい感じだったが、
来週から復活する。
忘れないように見なくては!
年末に「少女革命ウテナ」というアニメが終わった。
今まだ、漫画の方はちゃおで、さいとうちほさんが描いてみえるが、そちらはまたちょっとお話が違う。
どちらも「ビーパパス」というアニメの監督(幾原氏)やさいとうちほさんなどで構成された、少女革命ウテナという作品を合宿までして作り上げた人たちがいて、まあ、コンセプトはアニメも漫画も同じ事だと思う。
漫画の方がどちらかというとソフトで、ウテナも子供っぽいというか、澄んだ湖の水のように純粋である。
アニメのウテナも純粋ではあるが、切羽詰まったような純粋さで、澄んだ湖の水面には薄い氷がはられているように感じる。
ここでは、アニメの「ウテナ」という作品についてつぶやきたいと思う。
見ていない人には何のことだかわからないと思うけど、まあ、ここは影の国ということでご容赦願いたい。(すみません、久々に書いたらこんなわがままな内容で・・・(^^;)
ウテナはずっと、王子様(ディオス)を探していたが、それは世界の果てである、鳳暁生のかつての姿だった。ディオスの奇跡の力は薔薇の扉の向こうに閉じこめられ、その扉を開けて奇跡の力(ディオスの力)を手に入れるためには、デュエリストの心の剣が必要だった。最強の心の剣で、その扉を開ける。 暁生は、王子様になるのをやめた時から、その奇跡の力を失った。そして、暁生は、実の妹アンシーに、薔薇の花嫁として、世間のすべての怒り、悲しみ、憎しみなどの暗い心を剣として、世界の果てとなった王子の代わりに受けさせた。そしてアンシーの心は薔薇の棺に封印された。心を持たない薔薇の花嫁は、どんな剣を受けようとも、その身は死ぬことはなく、永遠に世界の果ての代わりに苦しみ続ける。世界の果ては花嫁でありながら魔女と呼ばれる妹を、すべてをわかった上で、「愛している」という。
しかしそれは愛なのか。
暁生は妹に本来なら自分に向けられるべき剣を、その身に受けさせ、最強のデュエリストを得るためにアンシーを操り、導く。暁生は自分の利益のためにアンシーを愛している。アンシーに、「すべて知っていても愛せるのは、私くらいだ」と、半ば押しつけるように言い、世界に絶望視か持っていないアンシーは「それは本当のことだ。誰も私の本当の姿を知って愛してくれる人はいない。」と、それに従う。本当は、この棺からすくって欲しいのに、手をさしのべることは決してない。アンシーは、世界に失望すると同時に自分にも失望している。
ウテナでは「薔薇」がたくさん出てくるが、私は薔薇とは心のことだと思っていた。誰もが心に薔薇の花(色はそれぞれだが)を持っていて、それはいつも一番深いところで眠っている。まあ、言うなれば、薔薇は心の一番純粋な部分といったところか。また、剣も、皆の胸から出現するところから、あれも心であろう。強い心の持ち主の剣は強く、純粋な光をたたえている。剣は人を傷つけもするが、同時に他人の心とふれあえる場所でもある。一番強く純粋な心を持ったウテナの剣でもディオスの力の眠る扉は開けられなかった。「まあ、いい。また次のデュエリストを探せば。」と、ディオスの影と寝そべる暁生。その時まだ、ディオスの力を得る者として、暁生は一番近い場所にいる。しかし、ウテナは、怪我をしつつも素手で、その扉を開けようとする。その先には、アンシーの心が棺に入っているはずだから。彼女を解き放ちたいから。
そして、ディオスの影は、暁生から離れ、またメリーゴーランドに乗る。ウテナは素手で、扉を開け、薔薇の棺に手をかけた。彼女は「奇跡の力」が欲しいのではない。アンシーの心を、本当の心を解き放ち、自分と一緒に歩いて欲しいと願ったのだ。一番何げなさそうで、実際人に欠けているモノ。人を自分より愛し、大事にしたいと願うこと。一緒に歩くということは、実際とても大変な事である。
しかし、結局ウテナは、アンシーの手が届いたところで、広場は壊れアンシーは棺桶ごと落下する。そしてアンシーを貫いていた剣は、ウテナが一身に浴びることとなる。結局ウテナはアンシーを救えなかった。
ウテナは、学園をさり、人々はウテナのことを忘れていく。何事もなかったように世界は回る。鳳暁生の支配する学園という世界は。
しかしその世界の中で、一つだけ、その回転からはずれている者がいた。アンシーである。救われなかったかのように見えたアンシーは、棺の中から、ウテナに自分から手をさしのべたときにもう救われていたのである。それまで暁生という世界から抜けられずにいたアンシー。それが世界のすべてだと思っていたアンシー。しかし、本当はそうではないと気付いた。世界には果て(暁生)ではなく、自分で歩いていける明日があるということに。そしてその明日の向こうにはウテナがいることも。
目的はあるが夢はない大人「暁生」。目的にためには手段を選ばず、昔捨てた「夢」を手に入れて、今の自分を革命しようとする大人。
目的はないが、夢の力を持つ子供「ウテナ」。ありのままのアンシーと出逢いたいという願いだけを持って、革命を起こす。アンシーという心に。
権力におぼれた暁生は、昔の自分の輝いていた時期を思い出しては、その力が今あればと願う。今あっても、今輝けるわけではないのに。
一人の力で、権力や世界は革命出来ないけど、ありのままの心で、相手のありのままの心を愛することを願って、一人の心でも、十分人の心を革命できるということだろうか。
一体自分はどっちに当てはまるかと言えば、どっちでもないだろう。もう歳を重ねてきて、ウテナほど純粋なわけでもないし、暁生ほど、卑怯ではない(と思う)。でも、夢は自分の後ろにあるモノではなく、自分の常に前にあるモノと言うことは、わかる。自分のありのままの心で、人の心を革命できて、(むろんその時には、自分の心も革命されているのだろう)信じあえたらどんなに素敵かと思う。
また、薔薇の花嫁という肩書きに縛られているアンシーは、まるで、自分のように思われた。最終回までは私はアンシーが嫌いではなかったが、ちょっと怖かったのだ。
でも最後まで見て、怖かったのは、自分に共通するところがあるからではないかと思った。
世界に縛られ、何が大事なのかわからなくなる、自分。
辛さを忘れるために心を閉ざす自分。
人との別れが怖いから、特定の人としか深くつきあえない自分。
自分を革命したくてもなかなか出来ない自分。
でも信じられれば、自分も人も世界も何か信じられるものがあれば、きっと自分を革命出来るのではないかな。という希望が持てた気がする。
何度も見る度、新しい想いがわき上がってくるので、何かとりとめのない内容になってしまった(^^;)
何かあらすじ紹介みたいだな・・読み返すと・・・。
次回はきっと、もうちょっとネタ的に絞って書こう・・・。(ちょっと反省)
まあ、結論としては、98年、革命出来るといいなということですね(^^;)。
そしてありのままの自分を出していけるといいなと思う。
はっ!「ありのままに」って、クレヨン王国のEDですね(笑)こう言うところで、実は繋がるとは・・・。
みんなが一つ、一つがみんな、ですね。うーむ。奥が深いです。
ありのままって大事なことですね。
1月11日はうち内海光司君の30回目の誕生日だった。
今年はちょうど、1月に帝国劇場でお芝居の仕事をしてるため、内海君の誕生日ジャストの日に、会える!という、ファンには嬉しい年だった。しかも30回目という区切りの年。光GENJIで、「ガラスの十代」を、一人20代で歌っていた内海君ももう30。あれから十年も経っているのね、とちょっと感慨深い。
歳月とう言うものは、あっというまな感じである。
私は実は内海ファンなのは、デビュー時からではなく、「奇跡の女神」の頃からである。それまでは、全然興味がなく、母が好きだったのを、たまたま横目で見ていた程度であるが、大学生になって、友達に、「あのな、すごい綺麗なんやて。みてみやぁ。」〔注:異国の言葉ではありません。(^^)方言です)といわれ続け、なんとなしに目で追っていたらすっかり洗脳されて、内海君から目が離せなくなった(^^)きっと、これを読んでいる、内海ファンじゃない人は(内海ファンの人も?)「どこが綺麗なのか?」と思うかもしれないが、どこともなく美しい(笑)。キムタクや反町さんや河村隆一さんなど、テレビでは世間一般で綺麗な男という人はいるであろうが、生海君(生の内海君)に比べたら、私にとってはどの人もどうでもいい感じである(3人のファンの人ごめんなさい(^^;;)。もし、河村隆一が、うちに来て、歌を歌ってくれるといっても、内海君のコンサートがあったらそっちに行くだろう。(しかし近くがいいな。貧しいから・・・)(愛はお金を超えられないのか・・)
これ程好きでも、内海国、ちっとも発展途上国から繁栄の兆しをみせません(;;)ごめんなさい。思いつくことがやばいこととか、無理そうなのばっかで(どんな事だ)なかなか起動しないんです・・。いいわけがましいな・・。がんばります、これからぼちぼち・・。
で、内海君も30。あっくんがコンサートで、「内海君30!?えーー、かっこいいーー!いえ、明日は我が身、俺もすぐに30だし。」といっていたが、光GENJI最年少の君が30になる頃には、内海君は・・・。とおもうと、何かもしかして40もあっという間なのでしょうか?!と思ってしまう。しかし、40の内海君というのも、想像しようとしても、想像できない。何か今のままの感じがします・・。ルックスとか。きっと綺麗なままなのね(まだ言うか)。
30代突入の晴れの日に、私は舞台には行けなかった。残念だった・・。オフ会もあったのに。でもいつもは舞台は1回も見に行けなくて、雑誌とか、話に聞いて、想像しているだけだが、今回は行けそうなので、嬉しい。生海君に会えるのねーー!双眼鏡もって行かなきゃ!
30歳って歳は、昔は何かおじさんに突入といった感じがしたが、今は、全然そんな気がしないから、
世の中の30歳はみんななんか若くなってきているのだろうか。(ただ、私が歳くって、歳が近くなってきたから?)平均寿命が延びた分、30でもまだ、子供と大人の中間なんだろうか。(そんなわけないか。)
私は今、2*歳で、もう結構家で肩身が狭くなる年頃だが、20歳の頃から変わったかと言えば、(いつも成人の日が来る度に思う)全然変わってない。いや、全然というのは違うか。久々に会う友達には、よく、「強くなった。」といわれるな。確かに、就職して荒波にもまれたので、うそも上手につけるようになったし、ちょっとの事では、夜泣かなくなった。
時々心が死んでしまっているのではと、不安になるけど、きっとそんな事はないはず。どこかで、本当の私が出せるところがあると思う。ていっても、本当の自分って自分でわかるのって難しいですね。人の思ってる自分のイメージとかってあるし・・。人から見た、つまり客観的に見た自分が本当の自分なのか、自分で心の奥底に眠ってる自分も知らない部分が本当の自分なのかもしれないし。人って、誤解しやすいけど、たまに自分が思いもかけなかった部分を指摘してくれたりして、勉強になりますよね。ネットで、結構そういう発見が多くて、これからもいろんな人と出会ってお話ししたいなぁと思います。そして人と対話することで、自分とも対話して、自分を知れればいいな。
それには、心に余裕を持つこととかって大切ですよね。月が綺麗だとか、空が素敵だとか。忙しいと、忘れがちだけど、私が忘れていても、ふと見上げると、そこにいつもと変わらずに優しい風は吹いていたりして。
何か歳の話から異様に話題がずれてしまった・・。先回反省したばっかりなのに、またとりとめない感じになってしまいましたね。(ご、ごめんなさいー)
何はともあれ、内海君、30歳おめでとうございます。これからも、田舎から応援してます!
もうあれから2週間以上経ってしまったが、1月18日雪のまだ残る東京へ「晶子曼陀羅」を見に行いました。感想をすぐにアップすれば良かったものを、ずるずるのばして、今日まできてしまった・・。でも、誰も楽しみになんてして無いからいいか(^^;)
一応予告のようなことを話してしまっていた、まり*んさんとき*さんくらいですね。(伏せ字にしなくても・・)「何で、書かないの?」と思っていたのは・・。すみません。遅くなりました。でも大したことかけないっす・・。
なぜ、出不精の私が、東京までがんばっていったのかというと、ひとえに内海光司様のためであります。いつも田舎にいる私は名古屋ならばいけるものの、東京、大阪となると、コンサートなら行っていたのですが、舞台となると、一緒にいってくれる人がいないものだから、内海君がお殿様をやった「引っ越し大名」しか見に行ったことがなかったのです。行きたいとは思うけど、なにぶん一人で東京まで芝居見物というのは勇気のいることでありました。(しかも日帰り)
だが、今回は1月という仕事が多少暇な時期でもあったし、今度は条件が違う!ネットをはじめたため、内海ファンの方々と知り合えたので、東京まで行けば、仲間がいるのだ!これはかなり心強いし、内海君の話が心おきなくできるのも、うれしい。(友達みんなあっくんファンだから・・)「内海君素敵ーー!!」と言っても白い視線どころか、「そうだよねー。」といてくれるお友達・・。いいですね。幸せが分かち合えるということはすばらしいですね。うんうん。ネットやってて良かった・・。
さて、初めての帝国劇場でどきどきしながら、チケットを買う。ちょっと奮発してき*さんとお隣同士で、S席12000円!しかし前から8列目くらい!しかも正面!双眼鏡を持ってきたが一切使わずにすんでしまった。だって、近いんだもん・・。幸せです・・。
いろいろ他の方の「晶子曼陀羅」についての感想をHPで予習してから、行ったので、少し予備知識はあったが、やはり百聞は一見にしかず!であった。
影の国なので、はっきり言おう。物語自体は、全くおもしろくない(;;)。おもしろいというのは変だな。なんていうか、すべてが甘すぎ。ストーリー構成も、舞台構成も。舞台のセットはすごい豪華だったが、なんていうのか・・ヒロイン与謝野晶子に共感できるところが無いというか・・。なんていうか・・芸術家だからしょうがないのかなぁ・・と思いつつも、言動の激しさ、脈絡のない台詞に、ただただ「舞台に上がっていいなぁ、今すぐ晶子の頭をはり倒したい・・。」とちょっとでも思わせる部分が多数あった。その上、ストーリーにメリハリという物が全くない上、幕間が多すぎ。2度目以上見た人を確実に眠らせる睡眠効果爆発の舞台・・。本当に与謝野晶子ってあんな人だったんですか・・。自由奔放と言ったら聞こえはいいけど、なんかすごく浅はかすぎる・・。2重人格みたいなところもある・・。絶対に友達にはなりたくないタイプでした・・。
しかし、その舞台の中で、与謝野晶子の弟「ひょうやん」役の内海光司は輝いておりました。肌は、おしろいを塗っている女性陣の誰よりも白く、精悍で、かっこいい!ファンの欲目?いえ、そんなことはありません。本当にどう見てもあの舞台上ではきらめいていました。その姿は昼にあっては白百合のごとく、夜にあっては、優しい月のように、それは誠実で、キャラクター的に一番普通の人・・。ひたむきで、けなげで、一所懸命で、まわりをしっかり見た一番現実的な人でした。(と、友達に言ったら「内海君てそういう役多いよね。」と一言で片づけられてしまった・・・。そういう事じゃなくて!本当に綺麗だったんだい!)台詞も表情もぴか一でした。特になんて言うか、他の人が台詞をしゃべっているときの、表情。弟ひょうやんのその時の感情の変化をよく表していたと思います。本当に素敵でした・・。これで、ストーリーも良かったら申し分なかったのに・・。
本当に話自体にはつっこみを入れたくなるところはいっぱいあり、特に後半「鉄勧が、フランスへ行くのに1年分原稿料を借りたのに、急に自分もフランスへ行くって、金はどうするんじゃい」とか「フランスの林檎の種をもらって子供は喜ぶんかい!」とか「フランスに行きたかったのは、ただ、子育て、家事労働からにげたかったんじゃないのかい。」とか、「フランスでは着物なのに、日本に帰るときは洋服かい!」とか。まあ、いいや・・。
で、思ったんですけど、あのキャストで、どうしても舞台をやらなければならなかったら、「ムーミン」なんてどうでしょう・・。晶子がムーミンママで、鉄幹が、ムーミンパパ。内海君はスナフキンで歌うたいながらでてきてもらって(笑)登美子さんがフローレンで、雅子さんがミー。あ、肝心のムーミン役がいないか(^^;)
みなさん、見ましたか?ってなんの事だ、おい(^^;)。
いきなりでしたね。長野五輪が開催されていますが、2月14日夜にフィギュアスケートの男子シングルのフリーの競技が行われました。
で、私、4年ほど前から男子フィギュアではごひいきの人がいるんです。
その人の名は、「フィリップ=キャンデロロ」。フランスの方で、なんと私と同い年(だと、今年初めて知りました。)。歳のことは関係ないか。
12日に規定競技「ショートプログラム」が行われたのですが、その日私は帰りが遅くて、家に付いたときにはもうキャンデロロの順番は終わっていたのです。しかもショートプログラム(SP)第1位のロシアの王子様「クーリック選手」の次の順番だったためか、順位は5位。
でも元々、キャンデロロ選手は、フリーを得意とする人なので、PS5位というのはいい位置だと思っていました。でも結構本人は自分が納得できる演技ができればいいみたいなところがあって、あんまり順位とか気にしてなさそうなんですよね。そこもまたいいところなのですが。
でも、フリーの演目は、「ダルタニアン」!言わずとしれた「三銃士」の主人公ですね。どういう演技になるのか期待が膨らみます。っていうのも、いつもはNHK杯に出場するので、それを毎年楽しみにしていたんですが、今年は出なかったんです。どうしたのか心配でしたが、キャンデロロ選手の応援HPをこのごろ見つけて、謎は解決されました。なので、今年初めてようやくキャンデロロ選手の演技を、五輪で見られる事になったのでもう、わくわくしちゃって。
フリーのスケーティング順序はなんと、ラストから2番目。ラストのストイコの前です。ストイコはSPの段階で2位の安定感のあるジャンプが定評の実力者!その前に1位のロシアの王子様クーリックはすでにすべるし・・。キャンデロロとしてはまあ、いい順序かも・・。あとは無視しないで自分のペースで、素晴らしい演技を・・。
しかし7時から始まって、すべるのは10時半頃だったので、はじめの方のフジテレビのCMの多さにちょっとうんざり。まあ順位の後の方の人だからってこうカットしまくっていい物なのか・・もしやキャンデロロの回になっても「では、ここで先日のストイコ選手の演技を振り返ってみましょう」とかいって、カットしたら、私はもう二度とフジのテレビは見ないぞという気まで起こさせるほどの、脈絡のない無駄の多い番組作りで、いらついたが、さすがに第3グループ(上位12位)からはほとんどノーカットだったので、許す。たとえ、表彰式までうつしてくれなくとも。(その後、NHKで、夜中にちゃんと表彰式まで映してくれたしね。やっぱりオリンピックとかはNHKで全部ちゃんとやった方がいいよ。前のSPはCBC(は東京ではなんだろう・・)そこでやったけど、その時もCMが多すぎて、3人に一人はCMでつぶされていた・・)
そして、キャンデロロの順番が回ってきた。クーリックはすでに4回転ジャンプも惜しげもなく危なげもなくこなして、王子様スマイルで、もう完璧に氷上の貴公子だったが、そんな事は今はどうでもいい。キャンデロロの衣装。まさにダルタニアン!ここまで役作り的な衣装の人はいない。
そして、始まった。ダルタニアンが、街へでてきて、希望に胸を膨らませ、銃士にあこがれる様子が始まりの演技から感じられる。そして、街で、王室仕えの「三銃士」に会い、あこがれ、自分も仲間のようになっていく。初めは、あこがれだけだった想いから、決闘で、人を殺める悲しさ、力を持つことの空しさを感じるダルタニアン。しかし、正義の心をいつも忘れない。そんな真っ直ぐなダルタニアンの心情を、演技で表現していたと思う。
特に決闘のシーンでは、氷の上とは思えぬ素晴らしいステップで、剣はもちろん実際に手には持っていないのに、全くその姿が見えるような、そしてその向かいに立つべき敵の姿も見えるような気がした。
素晴らしいステップ、素晴らしいジャンプ。そして何よりも素晴らしい演技、構成、キャンデロロの表情、すべてすべて満点だった。ジャッジは4回転ジャンプはなかったので、(いや、やって欲しくないです。前に怪我した足も心配だし、演技に集中してほしいから)あまり高くはなかったですが、プレゼンテーションでは、満点の6.0もでるし、4個の国から5.9がでました。フリーだけでは、2位になり、総合では3位でした。でも私の中ではキャンデロロは金メダルです。素晴らしかった。きっと、あの演技は多くの人が見てくれて、「この人は何者?!」と思ったに違いない。本当に素晴らしかった!
この日、私ははしゃいでしまって、2時半まで延々ビデオを見返して幸せになっていたのでした(笑)
また21日にエキシビジョン、あとこれは放送されるかはわかりませんが、24日に東京で、スケートメダリストのイベントがあるそうで、そこですべるかな?という感じです。
とりあえず、エキシビジョンが楽しみーー。また、何やってくれるか楽しみですね。きっと、また驚くようなこと、いっぱいやってくれることでしょう。エキシビジョン・・何かキャンデロロの独り舞台になりそうかも・・。クーリックもストイコも人気あるから、そんな事もないかなぁ・・。でもきっと一番印象深いことをするのはキャンデロロだと思います。
まだ見たことない方も21日エキシビジョン、是非見てみて下さいね。