Plazuelaトップ > 活動記録 > 1999/2/20

スタジオ
おしらせ
講師紹介
クラス案内
活動記録
ペーニャ
◆お問合せ◆
●スタジオ
TEL:092-573-8321
●倉橋
TEL:092-573-8472
  

所在地◆

福岡県大野城市野城市筒井1-1-3

倉橋富子フラメンコスタジオ「プラスエラ」福岡
  

スタジオ

おしらせ

講師紹介

クラス案内

活動記録

ペーニャ






 ペーニャ・ラ・ブレリア(スペイン/ヘレス) 1999年2月20日
 ■カンテ  アントニオ・デ・ラ・マレーナ
 ■ギター  ドミンゴ・ルビッチ
         田代 耕一
 ■パルマ  ホセ・ルビッチ ルイス・デ・ラ・トラ

  
●スペインの新聞 JEREZ(99.2.23付)より一部抜粋

 土曜の夜、「ペーニャ・ラ・ブレリア」はその日のステージで繰り広げられることの証人となるべく駆けつけた人達で、超満員となった。そして失望して帰った者が誰一人としていなかったどころか、「デルソル・アルスール」を見、そして聴いて誰もがそれに興奮した。「ステージで正統派フラメンコを踊る3人の日本人バイラオーラ」という風変わりなそのプログラムは、状況的にある種の不安を呼んだが、この試みの失敗を見ようと駆けつけた者はマリサ、ファナ、マヌエラ達が見せたその作為の無い自然さ、みずみずしさ、豊富な感動の前に屈服しなければならなかった。
 3人のバイオラーラが予定されたそれぞれのバイレ・ソロに臨むにあたり、アドレナリンを放出させるべく、プレゼンテーションとしてタンゴで幕は上がった。一番手はティエントを踊ったマヌエラ:島さゆりだった。しっかりとテンポを進めつつカンテに自由に唄わせ、その中で機会を見つけて数回だけ足を挿入していった。プエルタ、レプエルタ、ヒーロ、パラーダ、エスコビージャ、サパテアード、そして気力。その黒く真直ぐな髪から花が飛び散ることなく、絶えることの無い強い気力。大成功であった。マリサ:倉橋富子がアレグリアスを踊って第1部を閉めた。マヌエラ:島サユリよりもやや緊張気味であったが(グループのリーダーとして彼女には多大な責任がかかっていた)威厳をもってその責任を果たし、分を重ねると共に勇気付いていき、最後にはその役割を完璧に果たした。休憩の後、ギターがシギリージャを奏で始め、アントニオ・マレーナのカンテの声は絶対なる静寂を強いた。ファナ:阿比留由美はその壮厳なカンテに抱かれて身震いした。バイラオーラはドラマティズム―悲劇ではない―を銘記して、トーケとカンテに身を任せ、その壮麗な一連の振りを出していった。引き続き嵐のような拍手喝采で、また1つ成功が証明された。
 ステージには新たにマリサが登場。今度はソレアに挑む。緊張をなだめ、バイオラーラはその踊りに、賞賛に値する静かなる威厳を刻み込んだ。ここに倉橋富子はエッセンスの樽を開いて、真の情熱をもって全力を放ち、その大いなるアフィシオンとバイレ・フラメンコにふさわしい多大な敬意を披露した。
 
  
  
  
●スペインの新聞 DiariodeJeres(99.2.23付)より一部抜粋

 彼女らは日本人である。ここにその要点がある。くどい前置きはいらない。シギリージャス、ティエントス、ブレリアを踊るがカジェ・ヌエバに生まれたわけではない。サン・ミゲルでもない。それでもフラメンコを踊る。同じように、ルイスは年寄りのようなギターを弾くが(もちろんこれは最高の誉め言葉)、ヘレサーノでもなければアンダルースでさえない。その根がスペインの国土にはないにもかかわらず、各曲に渡ってカンタオールがそれを欲するがように弦を奏でる。彼は日本人である。訓練と気力にかけては第一級の日本人である。
 彼らの行為は過去に殆ど例が無かっただけに特別の関心に値する。この挑戦はジョークとして捉えられるものではなかった。「ラ・ブレリア」の振り付け師であり舞踊教師でもあるアナ・マリア・ロペスが日本に行った際にこの話を持ちかけた時、マリサ、マヌエラ、ファナ達は再度に渡って考えた。「これはマドリードでもセビージャでもない。最もプーロで最も素晴らしいフラメンコがあるヘレスなんだ。」とマリサは語った。
 「デルソル・アルスール」と洗礼名を受けたこのステージの細部までも見逃すまいと、アフィシオナード達や詮索好きな人々はこのチャンスを見逃さず、まるで鰯の缶詰のごとく押し寄せた観客の目は最初にルイスに注がれた。そしてすぐに、バイラオーラ達が出てくるのを待ち切れない気持ちで待った。
 アントニオ・マレーナ、ギターのドミンゴ・ルビッチ、パルマのルイス・デ・ラ・トタ、ホセ・ルビッチ、彼らがステージの上でアンダルシアの産物を添えると、日本人のルイス、そしてカンテが生まれる土地から何千キロも離れたところで長い年月に渡って練習を重ねてきた結果、世界中で最も価値ある場所で今回公式にアーティストとして認められることを得た、エキゾチックなバイラオーラ達はステージの上で完璧なまでに融合した。ルイスは警戒しながらルビッチの弦にとまるその指を見逃さずに追いかけた。彼はこのように30年間以上続けてきたのだ。バイオラーラ達としては、まるで200年間もずっと夢の王子のことを聞かされてきたかの様に、土曜日までそれは夢の中の出来事であり、このステージの中で実際にそれを体験する時が到来するのであった。フラメンコの世界、そしてヒターノの文化としてスペイン人アーティスト達が最も快く迎えられる街福岡、そこでの何時間にも渡る練習の中で、遥か遠かった現実が快い平手打ちで呼び覚まされた。とは言えそこにはフラメンコの環境と同じものなどは無い。
 ところが、3人がそれぞれティエントスータンゴ、アレグリアス、シギリージャス、ソレアレス、そしてブレリアスを踊るべく衣装に身を纏い、コンパスに乗ってステージが開幕すると事は変わった。ステージの上の彼らのその影はヘレサーノでも日本人でもなく、タコネオが最初から最後までコンパスとして我々に聞こえたように、それはフラメンコだった。観衆は分を刻むにつれて少しずつ、その東洋人としての容姿を忘れていった。実のところ、3人のバイラオーラ達は何も披露しにやって来たわけではない。そしてそのことこそが、最初から観衆に信頼感を与えたのだ。何よりも、フラメンコが聞こえるところなら必ずいるカメラや録音機、ビデオ・カメラを手にした同国人によって占められた前4列は、今回はステージが終了するまで瞬き一つさえしなかった。ペーニャの会長は得意満々であった。「こんなの見たことあるか?こんなに見事にやるとは想像にもしてなかったよ。これは大変な値打ちものだ。」あまりの嬉しさに途中で、彼らに会いに行くことを思い出して行ってしまった。照明も消えて観衆が帰り始める頃、ステージの下ではルイス、マリサ、マヌエラ、ファナはそれぞれ田代耕一、倉橋富子、島サユリ、阿比留由美にかえっていた。日々フラメンコに生きて4人併せて105年という年月をステージの上で具現化して、数キロの重荷を降ろしたのである。
  【Plazuelaトップ】 ‖ お知らせ先生紹介、記事紹介 クラス案内 活動記録 ペーニャ