女神様は、気まぐれで、悪戯好きな存在らしい。
 よりによって、あんなことをしてくれるんだから。






 相沢祐一は、七年ぶりに訪れたことになっている街のベンチで、そんなことを考えていた。
 祐一は、この街が嫌いだった。
 悲しい記憶が―――――思い出すことすら拒絶した出来事があった街だから。
 でも、今はそんなに嫌いじゃない。






 ひらひらと舞い降りる雪が、どこか儚くて寂しい。
 空はどんよりと曇り、雪が降っているのが当たり前と言える様相を呈していた。
 行き交う人は、傘を差したり、レインコートに身を包んだりして、雪を凌いでいる。
 何も持っていない人は、軒下や店の中で、雪を避けていた。


 だから、外のベンチで雪に埋もれているのは、待たされている自分だけだろう。
 約束の時間を大幅に回った時計を眺めながら、祐一はそっと溜息を吐いた。


「名雪の奴………昨日、電話であれだけ待ち合わせには遅れないって言ってたくせに。
どうやらオレンジ色の恐怖を味わいたいらしいな」


 コートとマフラーに身を包んでいるが、それでも身体の芯から冷えていくような感じがする。
 もともと、寒さは苦手だった。
 あの日も、こんな風に雪が降っていた。
 こんな風に、とても寒かった。
 でも、あの日と違うのは、心が絶望に染まっていないことだろう。


 気まぐれな女神にまで届いてしまうほど、悲しくて寂しい心。


 命すら捨て去ってしまえるほどの絶望。


「奇跡ってのは、本当にあったんだな…………」


 感慨深げに呟く。
 あの時、自分に起きた奇跡を思い出しながら、祐一はいとこが来るのを待っていた。




























 すべての歯車が、噛み合わなかった。
 七年前から始まった物語は、その時に完結した。
 バッドエンドという形をとって。






 彼は、誰一人として救うこともできずに、少女達は心か命を失った。
 まるで、そうなるのが運命だったかのように、祐一の努力をあざ笑うかのように。



 名雪は、心を閉ざしてしまった。
 連れ込まれた病院の点滴で、その命を支えている。
 母親の死が、彼女を暗闇に連れ去った。
 それは、生きていると言うより、死んでいないだけだった。



 栞は、病によって息を引き取った。
 けっきょく、奇跡は起きなかった。
 医師に告げられた通り、誕生日が彼女の命日だった。



 香里は、自宅に引きこもった。
 妹の部屋だった場所で、ずっと妹に謝りつづけている。
 喪失の悲しみに耐えながら、姉らしく在れなかった自分を責めながら。



 舞は、魔物と相打ちになり、そのまま逝った。
 いや、自らの手で、自らにとどめを刺したと言える。
 最後まで、自分の力を忌み嫌い、受け入れなかった。



 佐祐理は、舞の死の翌日、自殺した。
 いつか失敗した行為を、今度は成功させてしまった。
 舞と幸せになることで、舞を幸せにすることで得ようとした贖罪は、舞の死と共に終わった。



 真琴は、そのまま帰ってこなかった。
 人のぬくもりを求めた狐は、伝説をそのままなぞった。
 悲しい物語は、また繰り返された。



 美汐は、再び心を閉ざした。
 二度目の喪失は、彼女の心に深い傷を負わせた。
 狐のもたらすぬくもりと、残酷なまでの悲しみによって。



 あゆは、七年間の入院生活に、ピリオドを打った。
 三つ目の願いは、叶えられぬことの無いまま、永遠へと旅立った。
 忘れてくださいと、言いながら。








 夜の闇が、そっと深まっていた。
 相沢祐一と月宮あゆが、七年前に学校と呼んでいた場所には、当然のように人気が無かった。
 たった一人、相沢祐一を除いて、人の気配がなかった。


「なんで、こんな風になってしまったんだよ…………。
こんな残酷な結末しか、残されてなかったのかよ!!!」


 かつて、街で一番大きな木があった場所、絶望を紡ぐ物語が始まった地に、祐一はいた。
 悔しさと悲しさを拳に込めて、何度も何度も切り株に叩きつける。


「いったいみんなが何をしたっていうんだ!!
こんな悲しみに晒されなければならなかったんだ!!
くっそーーーーーーっ!!」


 手からは血が溢れていた。
 切り株に積もった雪が、少しずつ赤くなっていく。
 手の感覚は、とっくの昔に無くなっている。
 それでも、切り株を殴り続けた。
 身体の痛みで、心の痛みを少しでも減らそうとしているかのようだった。






 風の音と、拳が叩きつけられる音だけが、この場の音だった。
 どれくらい、そうしていたのだろうか。
 やがて、それにも疲れたかのように、祐一は、ばたんとその場に仰向けに倒れこんだ。


「神様なんて、いなかったんだ…………。
奇跡なんて、ありはしなかったんだ………。
栞も香里も言ってたっけ…………起こらないから、奇跡って言うんだっけな…………」


 見上げれば、月の見えない夜の空。
 それは、落ちてきそうなほど、灰色の雲に覆われている。
 舞い降りる雪が、儚くて美しかった。
 涙は、もう枯れてしまった。
 頬には、その名残が凍っている。
 時間の経過と共に、祐一にも雪が積もり始めた。
 冬の大気と冷たい雪が、ゆっくりと体温を奪っていく。


「――――だから寒いのは嫌いなんだ」


 冬には――――――雪には――――――悲しい記憶が多すぎる。
 生きていくことを、諦めさせるくらい、それが多かった。
 今、祐一は、緩慢な死を歩む。
 夢に落ちていくように、眠りに落ちていくように。
 大きすぎる悲しみと、深すぎる絶望は、祐一から生きる気力を奪っていた。


「ただ………あいつらの笑顔を護りたかっただけなのに。
ただ………あいつらの悲しみを消し去ってやりたかったのに。
ただ………一緒に笑って居たかったのに」


 今はもう叶わない夢を、ゆっくりと語る。
 目を閉じれば、祐一の好きだった少女達の笑顔が、浮かんでは消えていく。


「叶うならもう一度、あの愛しい微笑が見たかった……………」


 それが、祐一の最後に発した言葉だった。
 彼女達が愛した、優しい笑顔を浮かべて、優しい声を響かせて。


























 そして、柔らかな光が、辺りを包み込んだ。














 ありふれた優しさ

  第一話 女神さまの気まぐれ



Written By Parl

















 目が覚めた祐一は、寒さを感じなくなっていることに驚いた。
 それどころか、切り株を除いて、すべてが光に占領されていた。


「なんだ? ここは死後の世界か?」


 だいたい自分は、雪に抱かれて死んでいったはずだ。
 夜遅い時間帯だったが、祐一が家に戻らなくても心配してくれる人は、もう居なかったから。


「ここが死後の世界だとすると、天国か地獄だよな………。
と言っても、見た限りだと地獄には見えん。
そうなると消去法を使うまでも無く、ここは天国ってことになる。
やったじゃん、俺!!」


 どうやらここが天国らしいと認識した祐一は、嬉しそうになる。
 その辺を飛び回りそうだった。
 そんな祐一に水を差すかのように、突然、声が聞こえてきた。


「残念だが、ここは天国ではないぞ」
「なに、ここは天国ではないのか?
なんてこった。 俺は地獄行きになっていたのか。
こんなんだったら、真琴をからかうのを止めておくんだった」


 深刻そうに頭を抱えている。
 ものすごく異常な状態なのだが、祐一は気にしていないらしい。


「己の行いを悔いているところ恐縮だが、少しは現状に対する疑問や、我に対する疑問も持って欲しいのだが?」


 その声は、呆れているような困惑しているような声色だった。
 声の主を知る者は、きっともっと驚いただろう。
 数えるのも馬鹿らしいほどの長い時間の中で、そんな声色を出すのは初めてのはずだったから。


「むう………言われてみれば、周りには誰も居ないのに、声だけが聞こえてくるぞ」
「ようやくそのことを疑問に思ってくれたか」
「ううむ、ひょっとして、これが噂に聞く幻聴?」
「違う!!」
「ならば、ドップラー効果?」
「ぜんぜん違う!!」
「そうか、ここがあの『えいえんのせかい』ってやつだな。
でも、そこにいるのは『みずか』のはずだが、おかしいな」
「おかしいのは、おぬしの頭の中だーーーーっ!!」


 荒い息でも聞こえてきそうなほど、声の主は絶叫していた。
 だが、祐一は、いたって気にしていない。


「なんだ、短気な奴だな。 そんなに短気だと早死にするぞ?」
「余計なお世話だ。 だいたい、誰のせいだと思っている」
「自業自得だな」
「おぬしのせいだ!! おぬしのせい!!」
「おお、人のせいにするとは、よっぽど捻くれた教育を受けたんだな。 親の顔が見てみたいぞ」
「やっかましーーーーっ!!」
「冗談だ。 そんなに大声を出すんじゃない」


 声の主は、とってもマイペースな祐一に、思いっきり脱力しかけている。
 その長すぎる人生の………以下略。


「ところで、あんたは誰なんだ? それとここはどこだ? ついでに俺はどうなった?」
「ようやく本題に入れるな。 その質問には、順番に答えていこう」


 周囲の気配が、微妙に変わった。
 より、緊迫した雰囲気になっていく。


「まずおぬしだが、死んだとも言えるし、生きているとも言える」
「なんだそりゃ?」
「それについて説明しても良いのだが、おぬしには恐らく理解できないだろう」
「ちょっと引っかかるが、まあ良いだろう。 どうせ聞いても現状が変わるとは思えないしな」
「その通りだ。 次の質問だが、ここは我の世界の一部だと言っておこう」
「ふ〜ん、ずいぶんと変な庭を持っているんだな」
「庭と言うのは、言い得て妙かもしれん。 これも説明したところでおぬしの益になるとは思えんので省略させてもらおう。
さて、最後の質問だが、我はおぬし達の言葉で言うところの女神と言う奴だ」
「……………宗教の勧誘ならお断りだ」
「言うと思ったぞ」
「なぬ!? 俺としたことが、迂闊だった」
「おぬしは、とことん規格外だな」
「失敬な。 とっても個性的で既存の枠に囚われない心をもっていると言ってくれ」
「言葉を変えれば、協調性もなく、自分勝手とも言えるぞ」
「………屁理屈の多い奴め」
「おぬしに言われるとは、極めて心外だ」
「胃腸薬か? ならばこっちは、片腹痛いと正露丸だ!!」
「……………すまぬが、意味が分からぬぞ」
「女神様のくせに、情けない奴だな。
シンガイとくれば、胃腸薬が有名ではないか。
さらに、腹痛には正露丸がもっともポピュラーだぞ。
まったく、精進が足りないな」
「………………………はあっ」


 女神様と名乗った存在は、妙に深い溜息を吐いた。
 早く核心の部分を話したいのだが、さっきからペースを握られっぱなしだった。


「さて、いつまでたっても話が進まないので、とっとと用件を言ってしまうとしよう」
「なんだ?」
「おぬし、運命を変えてみたいと思わないか?」
「どういう意味だ?」
「ふむ、分からぬか。 ならば簡潔に言おう。
おぬしの愛する少女達の笑顔を取り戻すつもりはないか?」
「…………詳しく聞かせろ」


 今までのふざけた雰囲気は、微塵も無かった。
 顔つきも口調も、一気に真剣なものへと変わる。
 祐一は、思いっきり真面目モードになった。


「おぬしには言うまでもないが、すべては七年前のあの出来事から始まっている」
「あゆが木から落ちたことだな」
「そうだ。 そしてそれだけではない。 黄金色の麦畑、ものみの丘を含めて、悲劇はそこが始まりとなっている。
おぬしは、あの娘たちに起こる悲劇の原因を知っている。
いつ、どこで、なにが起きるか分かっていれば、それを防ぐこともできよう」
「たしかにな。 だけど、それだけじゃ、みんなを助けきれない」
「大丈夫だ。 そのための知識と力を、我が与えよう」
「知識と力?」
「今のおぬしたちの世界では、治すことの出来ない病の治療法や、人の温もりを求めた妖狐が命を失わない業だ」
「良いのか?」
「かまわぬよ。 そのために、おぬしをわざわざ喚んだのだからな」
「そうか…………で、代償はなんだ?」
「ほう、存外に鋭いな」


 その口調に、賞賛の色が滲んでいた。
 それまでの言動からして、若干見縊っていたのだが、祐一の人となりを修正する必要を感じた。
 そう言えば、学校の成績も、かなり優秀だったな、と女神は思った。


「神様に願いを叶えて貰うには、供物を捧げるのが常識だろ」
「その通りだ。 そして供物として捧げてもらうのは、おぬしの命だ」
「なんだ。 そんなことでいいのか」


 祐一は、拍子抜けたように、そう言った。
 その口調のあまりの軽さに、女神が訝しがった。


「おぬし………自らの命を軽んじておるのか?」
「まさか。 ただ、あいつらの笑顔に比べたら、遥かに安いだけさ」
「なるほどな。 おぬしが、あの娘らに愛される理由が、分かった気がするわ」
「ひとつだけ教えてくれ」
「なんだ?」
「なぜ、俺を助けた。 なぜ、俺にチャンスを与える?」
「気まぐれ………では、だめか?」
「いや、構わない。 気まぐれで助けてもらえるなら、それほどありがたいことはないさ」
「では、おぬしを七年前に送り届けよう。
代価は、全てを終えたときに、払ってもらう」
「おう。 じゃあ、さっさと送ってくれ」


 祐一の周囲が、微かに歪んだかと思うと、その存在が一瞬で消えた。
 まるで、最初から、祐一がそこに居なかったかのように。
 そして女神は、祐一に伝えなかった理由を、ぽつりと語る。


「あれほどの悲しみを聞いて、じっとしてなどいられぬわ。
我が、魂ごと揺さぶられたのだからな。
あの大木の精霊が、全身全霊を掛けて、我に呼びかけるはずじゃ。
一切の介入を禁ずるという、我が自らに掛した制約を精霊が知らぬわけでもあるまいに。
まあ、その制約も、いとも簡単に粉々に破壊されてしまったがな。
神々の鎖ですら耐えられなかった、あの慟哭。
他人のために流す涙、悲しむ心、叫び。
どれくらいぶりだろう。
人の魂や心を、これほど美しいと感じたのは。
これだから、人を愛することを止められない。
我が愛し子たちを、見守りつづけてしまう」


 さしあたり、相沢祐一の生涯を見守り続けてみようと思う。
 それは、とても楽しい娯楽だから。


「我は、気まぐれだからな。 それとな祐一、我はとても悪戯好きだぞ。
だから、代価を受け取る時期は、おぬしが人生の全てを終えたときにさせてもらおう」


 このことを伝えたときに、あの者はどれだけ狼狽するだろうか。
 それを考えると、楽しくて仕方が無い。
 くくくっと、思わず笑いが洩れる。
 そう言えば、笑ったのも久しぶりだと気づいた。


「さて、あの娘達は、どれだけの苦労をするだろうか。
何しろ、女神たる我の心をも奪うほどの男だからな。
余計なことに首を突っ込んで、無差別に女子の心を奪っていきかねぬからな」


 この女神は、気に入った者に試練を課したり、悪戯をするのが、ことのほか好きだった。
 周りからは、悪癖と言われている。
 だが、なんと言われても、これを止めるつもりはなかった。


「こんなに楽しいんだから、止めるわけにはいかないな」


 あの娘達には、特別にここでの会話を伝えておこうと思った。
 せっかく祐一が男を見せた場面なのだ。
 見せてあげなければ、可哀想と言うものだろう。
 それに、そっちの方が、もっと面白いことになりそうだから。
 果たして、あの者は、娘達の熱烈な想いを、どうやって受け止めるのだろうか。
 そんなことを考えながら、女神は祐一の行方を見続けていた。















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Ver.1.00 2002-01-18 公開