ものみの丘。 現在、祐一が立っている場所の名前。 この場所へ、彼は二人の少女を連れてきていた。 一人は、ものみの丘で起こる奇跡と悲劇を知る者。 それにより、心に深い傷を負ってしまった者。 もう一人は、ものみの丘の奇跡そのもの。 それを体現している者。 二人の少女は、天野美汐と沢渡真琴だった。 祐一は、美汐と真琴をどう救おうか悩んでいた。 いや、正確には、美汐をどう救おうか悩んでいたと言っていいだろう。 真琴を救うことは、祐一の中で既に決定済みの事項だった。 彼女を救う方法に関しては、他に選択肢が無いのである。 女神から得た業を以って、ものみの丘にまつわる悲劇的な運命から真琴を救い出すだけだ。 そのことに関して、祐一には一切の迷いが無い。 数日前に怪我をしていた子狐を拾って、手当てを施して人型へと変えてある。 本来なら、深く関わらずに、人の温もりを与えない方が良いのかもしれない。 そうすれば、真琴は狐としての生をまっとうするだろう。 だが、祐一は、人間としての真琴を求めてしまっていた。 己のエゴでしかなかったが、狐ではなく人としての真琴を望んだ。 祐一は、女神から授かった力を以って、真琴を人間へと変えていた。 真琴に人としての幸せを、もっと感じて欲しかったから。 だから、真琴が人として生き続けられる業を使うだけ。 しかし、対象が美汐になると、祐一も明確な答えが出せないでいた。 彼が救うと決めた少女達の中で、美汐だけが、ややイレギュラーなのだ。 彼女だけ、他の少女達と違うことがある。 それは、美汐にとって悲劇は既に起きていて、その悲劇を回避する手段を祐一が持たないことだった。 祐一が授かった知識と業の中にも、失われた妖狐を復活させるものは存在していない。 そうなると、これからの行動で少女の持つ傷を癒してあげなければならない。 祐一にとって、美汐の心の傷を癒すという方針を決めるまでは、さしたる苦労は無かった。 美汐を見捨てるなどという発想は、祐一の思考にはあり得ないからだ。 しかし、方法論になってくると話は変わってくる。 七年後の世界では、真琴の存在によって少し救われた気がしていた。 今回もそれを期待するしかないのかもしれない。 「ただ、あのときと今回とでは、決定的に違いすぎる………」 苦悩の表情で、祐一は呟いた。 祐一が真琴を救うということは、美汐に運命の不条理さと神の不公平さを突きつけるということになる。 なぜ、祐一のあの仔は助かって、美汐のあの仔は助からないのか………というように。 ――なるようにしか、ならない…………か。 背後に少女達の気配を感じながら、祐一は覚悟を決めた。 最悪、美汐に激しく恨まれることになっても、仕方が無いと。 そう……ものみの丘で真琴を見つけて、商店街で美汐に会わせた時点で、それは分かっていたはずだった。 それでも躊躇してしまうのは、祐一に恐怖があるから。 ――やっぱり、嫌われたくないよな。 誰に嫌われても構わない。 誰に疎まれても気にならない。 大切な八人の少女達にさえ、嫌われなかったら。 祐一は、そう思っていた。 だからこそ、美汐に嫌われるのは、かなりの恐怖になっている。 ――諦めが悪いな、俺も………。 七年後の世界で、辛酸を嘗め尽くしているといっても過言ではない祐一は、物事に対してシビアな見方をするようになっていた。 女神の気まぐれが祐一を救ってくれるまで、世界は彼に冷たく厳しかったから。 今の祐一は、常に悲観的な心構えをしてしまっていた。 ありふれた優しさ 第五話 ものみの丘と二人の少女 Written By Parl
ものみの丘からは、冬の街が良く見渡せた。 クリスマスが終わった街からは、新年へのカウントダウンへ向けて慌しい気配がする。 雪に白く染まった世界を見下ろしながら、祐一はそろそろいいかと足を止めた。 それに倣うように、真琴と美汐の二人も足を止める。 「そろそろ良いかな?」 その言葉を聞いて、美汐が祐一に質問した。 「相沢さんと仰いましたね? 私をこの場所まで連れてきて、いったい何をするつもりなのですか?」 本人曰く、「物腰が上品」な言葉遣いをしているが、それは質問というよりは詰問に近かった。 それに対して祐一は、どこか疲れた声を返した。 「………お前、小学校三年生だよな?」 「そうですが、なにか?」 ちょっと溜息。 祐一の目の前にいる少女達は、かなり対照的だった。 ひとりは、年齢相応の天真爛漫な女の子。 もうひとりは、年齢不相応なまでの落ち着きと言動の女の子。 とても同い年とは思えなかった。 「天野って、おばさんくさいな」 「失礼ですね、物腰が上品と言って下さい」 七年後の世界で、何度も繰り返されたやり取りだった。 もっとも、祐一にしか分からないことだったが。 しかし、返答しているだけマシなのだろう。 美汐を知る者が見れば、十二分に驚くことは間違いない。 何かしらの反応を返すと言うのは、この少女にとってかなり珍しい光景だからだ。 人との関わりと絶っている美汐が、見ず知らずの少年と居ることじたい珍しいのだ。 そんな美汐がついてきた理由は、隣に立つ少女の存在があったからこそ。 沢渡真琴と紹介された。 その懐かしく悲しい気配は、忘れようが無い。 かつて自分の側に居た『あの仔』の同類。 喪失の痛みは、今でも鮮明に覚えている。 いや、深すぎる傷跡は、常に痛みを美汐に伝えてきていた。 だから、柄じゃないと思いながらも、その時は祐一に忠告した。 「あなたは、ものみの丘に伝わる災禍のお話をご存知ですか?」 そして返ってきた答えは、美汐の想像の外にあった。 「知っている。 ものみの丘の狐が、人の温もりを求める話だろ? さらに言えば、それは悲劇じゃない。 俺が悲劇を変えてやる」 力強く断言する顔からは、自信と決意が漲っていた。 とても嘘や法螺だとは思えない。 人付き合いは少ないが、美汐は眼力にそれなりの自信をもっている。 そんな美汐から見ても、祐一から嘘を見出すことができない。 「本気でそんなことができると言うのですか?」 「ああ、本気だ。 なんならその目で確認してみるか?」 その祐一の言葉を確認するために、美汐はものみの丘にきた。 そして祐一は、美汐の突き刺すような視線を感じながら、真琴を悲劇から救うための準備を始める。 ものみの丘でも特に霊的な因子が強い場所を探した。 やがて、手ごろな場所を見つけると、すっと心に気合を入れる。 「じゃあ始めるか」 祐一は、精神の集中を始めた。 心に泉を描き、そこに澄んだ水を貯めるように、力を集めていく。 この業を使う最初で最後の機会。 少年の精神の高まりに比例するように、不可思議な力場が生成されていった。 一歩下がった位置に居る美汐と真琴にも、それがはっきりと分かった。 先ほどまでは北国らしい冷たく強い風が、ものみの丘には吹き付けていた。 ところが、現在では祐一を中心とした螺旋状の竜巻に似た風に変わっていた。 やや長めの髪が、風に揺られていた。 その髪の下には、目を閉じて一心不乱に集中している祐一の顔があった。 出会って間もない美汐と真琴が、初めて目にする真剣な表情の祐一。 二人の少女の心臓が、どきっと高鳴った。 ――う………相沢さん、その表情は反則でしょう。 ――あぅ………祐一のくせに、そんな表情するなんて生意気よぅ。 そんな少女達の内心とは別に、祐一は気力と集中を高めていく。 自然体でいた祐一が、ゆっくりと両手を胸の位置にあげる。 何かを包み込むように、わずかに隙間を作っている。 祐一の手と手の間には、なにも存在していない。 しかし、風はそこに集まっていた。 不可視の力は、確かにそこに存在していた。 真琴と美汐の二人は、言葉を失っていた。 あまりにも非日常的すぎる光景。 特に美汐の動揺は大きかった。 ものみの丘の伝説を知ってはいるが、それでも常識的な思考の持ち主だけに超常現象の類はほとんど信じていない。 テレビで騒がれている超常現象の大半、あるいは全部がやらせだと思っている。 だが、今こうして目の前で繰り広げられている出来事は、手品やまやかしではない。 れっきとした現実だ。 「真琴………こっちへ来てくれ」 準備を終えた祐一が、静かに真琴を呼んだ。 普段なら素直に従わないであろう真琴だったが、今の祐一の雰囲気に押され黙って言われた通りに近づいていく。 真琴が正面に立ったことを確認すると、祐一は不意に不可視のエネルギーを真琴に押し当てた。 突然のことに、声も出せず身動きもとれない真琴。 膨大なエネルギーが、真琴の体内を駆け巡っていた。 「あうぅ、なんか変な感じがするよう!」 まるで身体中を百足の大群が這いずり回っているかのような感覚が真琴を襲う。 あまりの不快感に、真琴が暴れだした。 「真琴、大丈夫だから落ち着くんだ」 祐一が真琴を抱きしめた。 まるで壊れ物を扱うかのような優しい抱擁。 それは、怯える子狐を安心させた抱擁。 真琴の記憶の琴線に触れる抱擁。 「あぅ………なんか温かい」 祐一の温もりに包まれて、真琴は大人しくなった。 頭を撫でる手が魔法のような効果をもたらす。 この温もりと匂いは、この撫でられ抱きしめられる感覚は、子狐のとき何より恋しいと感じたもの。 真琴は、すでに身体中に感じていた不快感を忘れていた。 それを遥かに上回る安らぎが与えられていたから。 子狐だった真琴を一瞬にして魅了した温もりと安らぎをまた感じている。 それが嬉しくて、もっと感じたくて、真琴は祐一の胸に縋りつく。 祐一の胸に甘えるように頬を擦り付けた。 端から見れば、まるで恋人同士の微笑ましいヒトコマ―――小学生ではあったが―――のような光景。 優しく真琴を包み込む祐一。 全てを委ねきって、全身全霊で温もりを求める真琴。 それを見ていた美汐は、なぜか胸に微かな寂寥を感じた。 今日、初めて会っただけの二人が抱き合っているだけなのに、なぜかチクリとした痛みが走る。 そんな自分の心の動きに、美汐はかなり驚いた。 先ほどまで繰り広げられていた不可思議な体験よりも、自分が感じたことが信じられなかった。 誰と誰が仲良くしようと、関係ないはずだった。 あの仔を失ってからは、全てが他人で誰もが同一の存在だったはずだ。 残酷なまでに公平な価値観しか持っていなかったはずだった美汐。 ―――どうして私はそんなことを………。 常に冷静沈着な美汐には大変珍しいことに、彼女はかなり混乱していた。 自分で自分のことが分からなくなるのは、初めての経験だった。 美汐の困惑を他所に、祐一は秘術を成功させようとしていた。 ぶっつけ本番だったが、なんとか問題なく終わることができそうだった。 祐一の腕の中に居る真琴は、安らぎに満ちた顔をしている。 彼が集めた自然界に満ちているエネルギーの塊は、真琴の中で完全に落ち着いているようだ。 妖孤が人になるための代償となる記憶と命。 それの代替となる力を真琴に与えるのが、祐一の使った業だった。 「真琴、気分はどうだ?」 問題ないと思うが、念のため真琴に確認をする祐一。 だが、真琴は身じろぎしない。 先ほどからずっと祐一に寄り添ったままだ。 「真琴、どうしたんだ?」 不信に思った祐一は、抱きしめていた真琴の肩を掴んで引き離す。 すると動きの無かった真琴がようやく動いた。 「あぅ……どうして?」 至福の時を邪魔された真琴は、祐一を睨みつけた。 言葉に非難の粒子が混じる。 なんで温もりをくれないの、と目で訴える。 「どうしてって、お前が呼びかけても返事しないからだ」 「えっ、そうだったの?」 「そうだ。 それでどうだ?」 「どうって……なにが?」 「不快感があったと思うが、今はどうなってる?」 「あ、それならもう感じない」 「そうか」 真琴の言葉を聞いて祐一は安心した。 女神から授かった業は、無事成功したようだった。 これで真琴が消滅してしまうことは無いだろう。 「これでもう大丈夫だな」 そう言うと真琴の頭を乱暴に撫でた。 なんとなく文句を言おうとした真琴だったが、祐一の温もりへの依存が勝り、結局そのまま撫でられることを選択した。 あぅ〜と言いながら、気持ちよさそうに目を閉じている。 ものみの丘には、穏やかな雰囲気が流れていた。 だが、それが一時的なものでしかないことを祐一は理解していた。 少しだけ離れた位置にいる美汐の存在があるからだ。 これから祐一は、彼女に説明しなければならない。 真琴が………ものみの丘の狐が、人間として天寿をまっとうできる事実。 そして、美汐には認められなかった奇跡が起きたという事実を話さなければならない。 「真琴、悪いけど、ちょっと向こうの方に行っててくれないか?」 「な、なんでよ」 「これから天野と重要な話があるんだ」 「あぅ………分かったわよ」 文句を言おうとした真琴だったが、祐一の声から真剣さと重みを感じ取って、大人しく二人から離れた。 後には祐一と美汐の二人が残された。 思い沈黙が辺りを支配する。 ものみの丘を駆け抜ける風だけが、唯一の音となっていた。 冬の冷たい風は、熱を奪っていく。 寒さが苦手な祐一だったが、今はそれがまったく気にならない。 気にしているような余裕は無い。 これから最大の難関が待っているのだ。 美汐はゆっくりと祐一に近寄ってきた。 一歩一歩、距離が縮まるにつれて、祐一の緊張が高まっていく。 なぜなら、美汐の表情がよりハッキリ見えるようになったからだ。 少女の顔は、怖いくらいに無表情だった。 まるでそれは、嵐の前の静寂を思わせる不自然な無表情だった。 頭がよく、理解力も高い美汐は、さきほどの光景を見て全てを悟っているだろう。 祐一が行った不可思議な現象が、災禍を見舞うものみの丘の狐を助けるものだったこと。 それにより、真琴はつかの間の奇跡から、恒久の奇跡へ居場所を変わったという事実。 美汐には許されなかった奇跡が、祐一には認められたという不条理。 祐一が宣言した通りに、悲劇が変わった現実。 決して短くは無い沈黙の時間。 最初に耐えられなくなったのは祐一だった。 黙っていても事態はなんら進展しない。 だから、祐一は思い切って美汐に話し掛けた。 「なんとなく理解しているんじゃないかと思うが、真琴はもう消滅することはない」 「そう………ですか」 その言葉を彼女は予期していたのだろう。 美汐はわずかに言葉を詰まらせたが、それ以外はいつもと変わらぬ様子だった。 またも不自然な沈黙が流れる。 祐一は、次に言うべき言葉を見つけられずにいた。 言い訳、説明、冗談…………様々な選択肢が浮かんだが、どれも正解だとは思えなかった。 何も言えず、何もできない時間。 この時が来ることを分かってはいたが、取るべき行動は決まらなかった。 ――あれ? ふと祐一があることに気づいた。 なんとなく視野に入ったもの。 それは、プルプルと振るえるほど、強く握り締められている握りこぶし。 完全なポーカーフェイスを保ちながら、それでも抑えきれない気持ち。 沈黙を続けているのは、口を開けば恨み言が出てしまうからだろう。 「言いたいことがあったら、言ったほうが良いぞ」 祐一は、激情を堪えている美汐に、そう告げた。 真面目すぎる少女だからこそ、美汐は苦しんでいるのだろう。 溜め込むよりは吐き出した方がいい。 そう考えて、祐一は美汐を促した。 「なぜ……なんですか? どうして……世界はこんなに不公平に満ちているんですか?」 「なぜと問われても困るな。 元々、世界は不公平なんだ」 「私とあなたと、どこが違うんでしょうね? あなたの仔と私のあの仔と、どこが違っていたんでしょう?」 「違いなんてどこにもない」 呻きに近い美汐の言葉。 それに対して、ただ答えを返すだけの祐一。 下手なことは言うべきじゃない、と祐一は思っていた。 変に取り繕ったところで現実は変わらない。 言葉を重ねるたびに、美汐の仮面は剥がれていった。 無感動で冷たく大人びた美汐という虚像の奥には、心優しい年相応の少女がいた。 穢れを知らない澄んだ瞳がゆっくりと潤んでくる。 涙が溜まり、やがて雫となって落ちた。 それは、冬の風に流されて、儚く散っていく。 涙が零れ落ちたとき、祐一は取るべき行動を間違えなかった。 美汐を抱き寄せて、ぎゅっと抱きしめた。 小さい身体は、激情に震えていた。 わずか小学三年生の少女が耐えるには、あまりにも思い現実。 祐一は精一杯の優しさで、美汐を包んだ。 「天野………我慢しなくて良いんだ。 泣きたいときは、思いっきり泣けば良い」 「うっ、うっ……うわぁぁぁん」 声を張り上げて美汐は泣いた。 あの仔を失ってから、初めて見せる涙だった。 美汐が泣いている間中、祐一は頭を撫で続けていた。 少しでも少女の悲しみを軽減できるようにと願いながら。 それが功を奏したのか、美汐の泣き声はやがて小さくなり、小さな嗚咽へと変わっていった。 抱きしめている少女が、だんだん落ち着きを取り戻していることを感じた祐一は、ちょっと抱擁を強める。 「あっ………」 思わず声が洩れた。 久しぶりに強く感じた他人の温もりは、剥き出しになった美汐の心を優しく包んでくれる。 まるで麻薬みたいだ、と美汐は思った。 この温かさを知ってしまったら、もう離れることはできない。 かつての自分が独りで在ることを願ったようには、この温もりを避けることはできない。 気が付けば、嗚咽も止まっていた。 ただ、感じている温もりが嬉しかった。 自分が持つ痛みを受け止めてくれたのが嬉しかった。 やがて、美汐は密着していた身体を少しだけ離すと、至近距離にある祐一の顔を見上げた。 「恥ずかしいところを、見せてしまいました」 「いや、かまわないよ」 恥ずかしげな美汐。 薄く頬を染めている少女は、おばさんくさくもなく年相応の可愛らしい女の子だった。 祐一は、美汐の頬に手を添えて、親指で涙を拭った。 美汐は軽く目を閉じて、されるがままになっている。 普段の美汐であれば、このようなことはなかっただろう。 だが、既に祐一の胸を借りて泣いてしまったから、恥ずかしさの感覚がやや麻痺していた。 それに、祐一の手のひらの温もりが、妙に心地よかった。 「結局、私は逃げていただけなんですね。 あの仔が消えてしまってから、それを認められずにいた。 失った痛み……またそれを経験するのが怖くて、色々と理由をつけてあの仔との思い出に逃避していた」 ゆっくりと己の心情を吐露する美汐は、少し辛そうだったが吹っ切れた表情をしていた。 祐一は、黙って美汐の話に耳を傾けた。 美汐の独白は続く。 「そんな風に逃げて、痛みを感じないように他人との関わりを絶って、自分の世界に埋没する。 いつのまにか、あの仔を求めている理由が、自己防衛の手段になっていました。 相沢さんが、なぜ救う術を知っているかは分かりません。 でも奇跡が起きるなら、こんな卑怯者の自分ではなく、相沢さんに起こったのも納得です。 相沢さんの真琴への想いは、私なんかよりも遥かに強くて純粋でしたから」 「そんなことはない!!」 今まで黙って聞いていた祐一が、突然大声を出した。 美汐はびっくりして祐一をまじまじと見つめる。 「そんなことはないさ。 俺と天野の差は、何も無い。 こんな言い方はしたくないが、強いて言うなら運の差ってやつだ」 「運……ですか?」 「そ、運だ。 女神様の気まぐれが、俺と天野の差のすべてだ。 気まぐれを起こしたか、気まぐれを起こさなかったかの運の差だけ。 だから、俺より想いが少なかったとか言うなよ。 天野は、あんだけ泣けるくらい強い想いを持っていたんだからな」 不器用だけど精一杯の優しさで、祐一は答えた。 祐一は、目の前の少女から生真面目さと不器用さを感じていた。 生真面目で不器用だから、すぐに自分を卑下してしまっている。 自信家である必要は無いが、謙虚過ぎるのもよくない。 「天野、そんなに自分を貶めないでくれ。 お前は間違いなく強くて純粋な想いを持っていた。 天野は、また辛い想いをするかもしれないと分かっていながら、俺と真琴に関わってくれたじゃないか。 だから、絶対に卑怯者なんかでもないぞ。 天野は………美汐はとっても心優しい女の子だからな」 最後の言葉は、ちょっと照れくさそうだった。 明後日の方向を見ながら、ぽりぽりと頬を掻く祐一。 よく見ると頬がほんのりと赤く色づいている。 それを見ていた美汐は、なんだかとっても嬉しくなってきた。 「相沢さん………はい!!」 だから、元気にそう言って、美汐はにっこりと微笑んだ。 無邪気で優しく柔らかい笑顔………その凶悪さを知らないまま。 七年後の世界でも見たことの無い、美汐の全開の笑み。 至近距離でそれを見た祐一は、呆然としてしまう。 「相沢さん、どうされたのですか?」 手を頬に添えられたまま、美汐は小首をかしげた。 無意識の行動だが、美汐はその破壊力を知らない。 それは、途方もなく可愛らしかった。 美汐の心からの笑顔を初めて見た祐一は、心に深刻な打撃を受けていた。 可憐な唇が動いて言葉を紡ぐたびに、祐一はそこから目が離せなくなる。 そして、何かの引力が働いたかのように、祐一は引き寄せられた。 そっと重なる唇。 くちづけをした側は、あまりにも自然にそれを行った。 くちづけをされた側は、驚きで目を見開いていた。 重なっていた唇が、名残惜しげにしながら、すっと離れた。 「あ、相沢さん!?」 詰問や非難は、声に含まれていなかった。 ただ、純粋な驚きだけが存在していた。 「あ………わりぃ。 天野があんまり可愛かったからつい………」 その言葉は、言った側にも言われた側にも、多大なダメージを与える結果になった。 動揺していた祐一は、本音をこぼしてしまっていた。 男女間の話題を苦手としている祐一は、そういった話題の時に、まず正直な心情を吐露しない。 それにも関わらず言ってしまったのは、それだけ混乱していたからだろう。 美汐にとっても、それは聞き慣れない言葉だった。 普段の美汐は、他人との関わりを徹底的に排除していた。 そんな美汐に冠されている言葉は、可愛くないや無愛想といったものだった。 他人から可愛いと言われたのは、初めての経験。 それは、彼女が予想していた以上の威力を秘めていた。 顔が信じられないくらい熱かった。 鏡を見るまでも無く、真っ赤になっているのが分かる。 美汐はペースを乱されていると思った。 ここで美汐は、建て直しをはかる。 ――きっと相沢さんは、こういうことに抵抗が無い人なんだ。 そう決め付けて、美汐は祐一を非難することにした。 思えば、先ほども真琴を抱きしめていたではないか。 だから、祐一にとって口づけは、気楽なものだろうと予想する。 「相沢さん、破廉恥なことはしないで下さい」 「は、破廉恥ってなんだよ」 「それは………そ、その……キ、キキ、キスです」 真っ赤になって、そう言った。 この二人は、良くも悪くも精神年齢が異様に高かった。 祐一の外見は、小学生でしかないが、実質的な中身は高校二年生なのである。 思春期真っ只中で、こういったことに興味津々なお年頃だった。 一方の美汐は、精神が遥かに成熟していた。 あの仔を失った悲しみから、一人で生きることを決意した美汐は、大人になろうと背伸びをしていた。 両親の仕事の都合で、一人暮らしをしていたのもそれを助長している。 一応、家政婦が居たが、彼女は己の職務の範囲を一歩も出てはいなかった。 決められた時間に訪れて、決められた家事や仕事をこなして、決められた時間に帰っていくだけ。 ある意味プロフェッショナルなのだが、人としての温かみは欠片もなかった。 必然的に、美汐の生活は、何でも自分で考えて、自分で判断をして、行うことになっていく。 結果として、かなり大人びた性格と性質を獲得してもなんら不思議はないだろう。 キスと改めて言うだけで、美汐は恥ずかしさで一杯になった。 それでも言葉にした勢いに任せて、考えていたことを祐一にぶつける。 「相沢さんはこういったことに慣れているかもしれませんが、それを私に当てはめないで下さい」 ストレートとは言えなかったも知れない言葉だったが、ストライクゾーンには入っていたようだ。 美汐が意図した通りの意味で祐一に伝わった。 だが、それに対する祐一の反応は、美汐の予想を完全に越えていた。 「ば、ばか! 俺だって慣れてないわ!! そ、それにさっきのはファーストキスだったし………」 「あ……あう………そ、そうだったんですか?」 「あ、ああ。 そういうそっちは、どうなんだよ」 「わ、私だって初めてです!!」 「そ、そうか………それは、その……ごちそうさま」 「あ……お粗末さまです」 そこまで言って、お互い変なことを言い合っていることに、二人は気づいた。 意味を良く吟味して、それを理解した瞬間、沸騰した。 ――な、なんだよ、ごちそうさまってなんかすごくいやらしいぞ。 ――お粗末さまって、料理を振舞ったわけじゃないのに、私ったら何を言っているんでしょうか………。 そんな二人は、端から見たら純な恋人同士にしか見えなかっただろう。 そして、ものみの丘には、端から見ている者が一人存在していた。 その一人は、祐一の言いつけを守って離れた位置に居るが、今にも飛び出しそうな気配をしている。 真琴が我慢の限界を感じている頃、祐一と美汐はちらちらと互いの様子を伺っていた。 ふと、互いの視線が絡まる。 二人は視線を逸らすことが出来ない。 束縛か魅了の魔法が掛かっているかのように、それに支配されかけている。 再び世界が停止した。 祐一と美汐の世界の住人は、二人だけになっていた。 ここはものみの丘。 普段から人が滅多に訪れない場所。 つまり、普通なら邪魔は入らない。 今も二人の他には一人が居るだけ。 だがその一人は、二人の雰囲気に多大なる危機感を抱いた。 先ほどの行為だけでも危険水域を突破しているのに、これ以上なにかあったら本格的に危険だ。 これは、邪魔に入らなければならない。 真琴はそう判断すると、一気に駆け出した。 「あ〜〜〜う〜〜〜。 それ以上は、だめ〜〜〜〜!!!」 「えっ?」 「へっ?」 突然の大声に、祐一と美汐は驚いた。 慌てて声がした方向を見ると、ツインテイルを振り乱しながら真琴が走って向かってきていた。 半ば呆然としていると、真琴は二人の間に割って入った。 二人の世界へ乱入を果たした真琴だったが、まだ独特な雰囲気が残っている。 動物的な本能が、真琴に危険を伝える。 これ以上は、決定的に何かがまずい。 このままの雰囲気を維持させるのは、絶対にまずい。 具体的に何がとは言えなかったが、真琴はとにかく二人っきりにさせてはいけないと思った。 そして、この雰囲気を破壊しなければならないとも思った。 「祐一、なにしているのよう!」 なにかしなければと追い詰められた真琴は、苛立ちをそのまま祐一にぶつけることにした。 とりあえず、祐一を非難して雰囲気を壊すのだ。 その思いが強かったが、どうやら運良く成功したようだ。 「な、なにって言われてもなぁ…………」 詰問された祐一は、言葉を濁した。 キスをしていましたとは言えない。 真琴には恐らく………いや、確実に決定的瞬間を目撃されているだろう。 それでも祐一は、その話題を避けたかった。 「ところで相沢さん、いつまでここに居るのですか?」 援軍は、思わぬところからやってきた。 どうやら美汐もその話題に触れたくないようだ。 かなり強引に話題を逸らそうとする。 もちろん祐一は美汐の助け舟に飛び乗った。 「そろそろ帰ろうか。 真琴も天野も商店街に行こうぜ」 「それはかまいませんが」 「商店街に行ってなにするの?」 「肉まんでも奢ってやるよ。 こんな風に寒い日にはピッタリの食べ物だぞ」 「あぅ、肉まん?」 「ふふっ、相沢さんの言う通り、寒い日には美味しい食べ物ですよ、真琴」 「美味しい食べ物? 楽しみ!!」 美味しい食べ物と聞いて、真琴はかなり乗り気になった。 祐一と美汐を引っ張るようにして、先を急いでいる。 そんな真琴を優しい眼差しで見つめる美汐。 そこに人との関り合いを避けていた少女の面影はなかった。 祐一は、二人の少女を救うことができてホッとしていた。 真琴と美汐の生活のことも考えなければならなかったが、それは大きな問題ではなかった。 あゆと同じように、頼りになる叔母に任せれば大丈夫だろうから。 また、後日に二人を呼んで水瀬家の居候になる話をしなければならないが、とりあえず今はこれでよかった。 「あとは、不器用な姉とアイス大好きな妹の二人だけだな」 ポツリと呟いた。 そう………あと祐一が救うべき少女は、美坂姉妹だけだ。 祐一が、自分の考えに没頭しているころ、美汐が真琴に話し掛けていた。 「真琴、私はあなたとお友達になりたいです」 「真琴と友達?」 「はい、そうです。 それに真琴と私はライバルですから」 「えっ、ライバル?」 「相沢さんの温もりは、やっぱり独占したいです」 「ま、真琴だって祐一の温もりを独占する!」 「そうですね。 でも負けませんよ」 「真琴だって負けない!」 「それじゃあ、これからもよろしくね、真琴」 「よ、よろしく………え、えーと………」 「私のことは、美汐と呼んでください」 「分かった、美汐ね。 じゃあ真琴と美汐は友達でライバル」 二人の少女は互いに微笑み合うと、固い握手をした。 もちろん祐一は、二人の会話にまったく気づいていなかった。 少女達を助けるたびに、その心を奪っていっているのだが、その事にまったく気づいていない。 少女達を救うことで頭が一杯だからだろう。 果たして目的を達成したとき、祐一にはどのような修羅場が待っているのか。 それは悪戯好きの女神だけが知っているのかもしれない。 Ver.1.00 2002-02-19 公開 |