彼は彼女を救えるか

第一話 僕と生きることが君のしあわせ

「えーっ、今度の日曜もダメなのかよ」

「ごめんごめん、ゼミの用事が入っちゃってさ……」

「先週もそんなこと云ってたじゃん」

「だからごめんって。やっぱりさ、購買のヘルプで1カ月近く休んじゃったのが、かなり堪えてるのよね〜」

 智也は膨れっ面で天井を見上げた。電話の子機を持って、ベッドに横になったまま小夜美と電話で話していたのだ。
 受話器の向こうからは、まだ申し訳なさそうな小夜美の声が聞こえている。しょうがないことだと、わかってはいるのだが……。

「ほんっとごめん。この埋め合わせは、必ずするから……」

「先週の分もまだしてもらってないけど……。まあ、いいや。わかったよ、もう」

「ごめんね、来週は絶対空けるから……」

 そのあとは、他愛もない話をして電話を切った。子機を枕元に置くと同時に、ため息が漏れる。
 ……今日はまだいいほうなのだ。電話で話す時間が持てたのだから。
 智也の想像を裏切って、小夜美はかなり忙しい大学生活を送っていた。1カ月も大学を休むなんていうのは、大変無茶なことだったのだ。腰痛が悪化しても、無理をして仕事に出ようとする母を案じてのことだった。
 その間の遅れを取り戻すため、現在、小夜美はゼミの勉強やたまったレポートの消化に忙殺されている。
 そんなときだからこそ、自分が理解のあるところを見せなければ。こんなときに駄々をこねていては、いつまでも「弟」扱いのままだ。
 そう、わかってはいるのだが。

「……」

 ふと寝返りを打つと、カーテンを開けたままの窓が目に入った。すぐ隣の家の窓も。

(彩花は……いつでもそばにいてくれたのに……)

 そんなことを考えている自分に、愕然とする智也。
 彩花と比べて、どうするんだ。
 布団を頭までかぶって、智也はもう寝ることにした。
 寝つきのいいのが彼の取り柄だったが、しかし、こんなときに限ってその取り柄は発揮されなかった。

     *

 寝不足でぼーっとした頭で、智也は駅までの道のりを歩いていた。
 駅前で、所在なげに立っている少女が見える。智也に気がつくと、彼女は満面の笑みを浮かべて、大きく手を振った。

「とーもちゃーん。おはようっ」

「……おう」

 軽く答えただけで、智也はそのまま改札を抜けていってしまう。少女――唯笑も急いでそのあとを追った。

「なによぅ。今日はいつにも増して機嫌悪いのね。小夜美さんとけんかでもしたの?」

「……けんかするほど会ってないよ」

「……そっか……」

 智也のそっけない回答に、唯笑は少しうつむいた。
 智也が小夜美とつきあうようになってからも、唯笑は今までと変わらない態度で接してきた。朝はこうして待っていてくれるし、一緒に帰ることも多い。ただ何も変わらない「日常」があった。

「でもさ、小夜美さんも忙しいから、しょうがないよ」

「そんなこと、唯笑に云われなくたってわかってる」

 ついぶっきらぼうに智也は答えてしまう。八つ当たりだ、と自覚しているからこそ、智也は余計にイライラした。
 けれど、そんな智也に対して唯笑は、

「そっか、そうだよね」

 そう云って笑うばかりだった。
 その笑顔に甘えているということまでは、智也も気づいていなかった。

「じゃあさ、明日の日曜日も、智ちゃんは暇なの?」

「そういうことだ。夕べ、ドタキャンされた」

「それなら……さ、唯笑と……」

「ん……?」

 少し赤くなって言いよどむ唯笑の顔を、智也が覗き込んだ。唯笑はもっと赤面して、智也から目をそらす。

「唯笑と一緒に……彩ちゃんのお墓参りに行かない?」

「彩花……の……?」

 なぜか、心臓を鷲掴みにされたような衝撃を覚えた。
 血の気が引いて、冷や汗が浮かんでくる。
 彩花。
 その名前が出されることを、自分はまだこんなに恐れていたなんて。
 しかし、智也の様子に気づくことなく、唯笑は言葉を続けた。

「うん。小夜美さんとのこと、まだ彩ちゃんにちゃんと報告してないんでしょ? ほんとは小夜美さんと一緒に行くのがいいのかもしれないけど……まあ、とりあえず、ね」

 断る理由はなかった。だから、智也は頷くしかなかった。

「そう……だな」

「うんっ。彩ちゃんも、喜んでくれると思うよ」

 弾けるような笑顔を浮かべる唯笑とは対照的に、智也は、断罪の席に引き出されるような感覚を味わっていた。

     *

 その日は、雲ひとつない快晴だった。
 彩花を失った日からは、想像もできない。あのときの激しい雨は、二度とやむことがないと思っていた。すべてが鉛色の雲に覆い尽くされ、かけがえのない人を失った痛みが、雨となって永遠に自分を打ち続けるのだと。
 ――しかし、時は流れ、やがて雨は上がり……。

「智ちゃん、どうしたの。さっきから空見てばっかりで」

「あ……ああ、なんでもない」

 唯笑に促されて視線を下ろした先には、彩花の墓碑がある。
 彩花は永遠に失われ、そして俺はまだ生きてこんなところに立っているのだ。
 そのどうしようもない現実が、智也を打ちのめした。

「さ……智ちゃん」

 墓碑の正面を譲り、唯笑が智也を促す。智也はゆっくりとその場所に立った。

「彩花……」

 墓碑を見つめながら、声をかけた。

「彩花……俺は……」

 その先は言葉にならず、智也はうつむいてしまった。

「智ちゃん……?」

 唯笑が怪訝そうに智也の顔を覗き込んでくる。
 しかし智也は答えることも、顔を上げることさえできず、肩を震わせるばかりだった。

     *

 帰り道、智也と唯笑は終始無言だった。
 唯笑を家の前まで送っていき、智也は「じゃあな」と手を上げて、帰ろうとした。その背中に、唯笑が声をかけた。

「あ、あの……智ちゃん……」

「ん?」

 振り向くと、唯笑は目に涙を浮かべていた。思いつめた表情で、唇を噛んでいる。

「どうした?」

「その……ごめんね、今日は」

「なんで唯笑が謝るんだ?」

「うん……」

 しばし顔を伏せたあと、唯笑は面を上げて智也の瞳を正面から見つめた。涙でいっぱいのその瞳を、智也は正視できなかった。

「大丈夫……だよね、智ちゃん」

「唯笑……?」

「大丈夫だよね?」

 それ以上は言葉にならず、ただじっと智也を見つめている。
 強く頷いてやらなければならない。そう思ったのだが、智也は曖昧に笑うことしかできなかった。

「なに云ってんだよ、唯笑」

「智ちゃん……」

「じゃあな。また明日」

 それだけ云うと、智也は歩き出した。唯笑の視線を感じながら、逃げるように、早足で。

(大丈夫だよね?)

 唯笑の言葉が、耳に残っていた。
 大丈夫だと、自分でも思っていた。彩花のことは思い出にして、新しい恋をしていけると。
 だけど、本当は――。

「智也クン?」

 ふいに呼びかけられて、顔を上げた。いつの間にか自分の家まで歩いてきていたらしい。
 そして、玄関の前で佇む女性が。

「……小夜美さん?」

「そうだよー。せっかく急いで用事切り上げてきたのに、いないんだもん。どこ行ってたの?」

 膨れっ面を作る小夜美。しかし目は笑っていたし、すぐ笑顔に戻った。
 けれど智也は、その笑顔に笑い返すことができなかった。ずっとずっと逢いたかったはずなのに。

「……智也クン?」

 智也の様子がおかしいことに、小夜美もようやく気づいた。

「どうしたの? 具合でも悪いの?」

 熱でもあるのかと、小夜美が智也の額に手を伸ばす。だが智也は、反射的にその手を払ってしまっていた。

「……」

「……あ、ご、ごめん。なんでもないよ」

 慌てて取り繕う智也だったが、どうにも気まずい空気が漂っていた。
 しばしの沈黙のあと、小夜美がひとつため息をついた。

「……それで、どこ行ってたの?」

「唯笑と……彩花の墓参りに……」

「唯笑ちゃんと……ふーん、そうなんだ……」

「……なんだよ、その云い方」

「べっつに。無理して来なくてもよかったかなって思っただけ」

「勝手なこと云うなよ。もともとそっちが約束破ったんだろ」

「ひどい、そんな云い方。あたしだって……」

 逢いたかったのに、という言葉を小夜美は飲み込んだ。
 智也も、小夜美に逢いたかった。
 逢って、色々なことを話したかった。ふたりとも同じことを考えていたのに、どうしてこんな風になってしまうんだろう。
 どちらからともなく、ふたりは黙り込んだ。
 吹き込んだ北風に身を震わせると、小夜美は踵を返した。

「……帰るね」

「……」

 智也は何も云わない。ただ段々遠ざかっていく足音を聞いていた。

     *

 玄関のドアを後ろ手に閉めると、智也はドアにもたれてため息をついた。
 どうして、あんな態度を取ってしまったんだろう。
 苦い後悔が、胸を侵していた。
 彩花のことで動揺しているときに、思いがけず小夜美に逢ってしまい、素直になれなかった。
 ――いや、素直になれなかったのではない。わざわざ逢いに来てくれたことが嬉しくて……同時に、つらかったから。
 なぜなら、俺は、まだ――。
 大きくかぶりを振って、智也はこみ上げる想いを振り払った。それは、考えるべきことではないような気がした。
 今日はもうしょうがない。明日、謝ろう。
 そう考えて靴を脱ごうとしたとき――、動きが、止まった。
 明日? 明日、逢えるかどうかもわからないのに? 声だって、聞けるかどうか。
 だからこそ、小夜美は来てくれたのだ。逢える時間を、大切にするために。
 そう考えたとき、智也はすでに閉めたばかりの玄関のドアを開けていた。
 今日、謝らなきゃ。
 小夜美のあとを追うために、急いで家を飛び出そうとする智也。だが、門前には――。
 息を切らせて立つ小夜美が、いた。

「小夜美さん……」

「……やっ。もしかして、迎えに出てくれるところだった?」

「……うん」

「惜しい。それなら、追わせればよかったな」

 小夜美はおどけて見せながら、照れたように笑う。小夜美が同じように考えて戻ってきてくれたのだとわかって、智也もようやく笑顔を返すことができた。

「寒くなっちゃった。上がってもいい? お家の人、いないんだよね」

「もちろん。どうぞ」

 小夜美の手を握って、智也は家に入った。
 小夜美の手は、とても冷たかった。きっと智也の帰りを長いこと待っていたのだろう。

「……ごめんよ、小夜美さん」

「あたしこそ。大人気なかったね。ごめん」

 そう云った小夜美の笑顔は、少し淋しげだった。彼女にそんな顔をさせたことで、智也は自分を責めた。

「俺が珈琲入れるからさ。座っててよ」

「うん。ありがと」

 小夜美はソファに腰を下ろす。智也はインスタントの珈琲を手早く作り、カップを2つ持って小夜美の隣に座った。
 小夜美が智也の体に寄り添ってくる。手と同じように、体も冷え切っていた。
 智也はためらいがちに腕を伸ばし、小夜美の肩を抱いた。小夜美は目を閉じて、智也に体重を預けてきた。
 そのまましばらく、ふたりは何も云わず、珈琲を飲みながら体を温めていた。

「……ねえ」

 目を閉じたままで、小夜美が呟いた。

「なに?」

「今日……何かあったんでしょう?」

「……」

「話して……ほしいな。さっき云ってた……彩花さん、だっけ? そのひとと……関係あるんだよね?」

 智也は、小夜美に彩花の話はしていなかった。自分だけの問題だと、自分がひとりで乗り越えるべきことだと思っていたから。
 しかし、今にいたっても彩花が智也の心に影を落としている以上、もう隠し通すわけにはいかなかった。

「そう……俺と唯笑には、もうひとり幼馴染がいたんだ……」

     *

 智也ははじめから、すべてを包み隠さず話した。
 物心ついたときから、3人一緒だったこと。
 いつの間にか彩花を愛し、愛されたこと。
 そして……彩花を失ったこと。
 小夜美は瞳を閉じたままで、ただ黙って話を聞いていた。

「俺のせいで……彩花はいなくなってしまった……。ずっと……ずっと……そう思ってきた……」

 智也の告白が終わる。小夜美はゆっくりと瞳を開いて、かすれる声で囁いた。瞳には、悲しみと、諦めに近い色があった。

「今でも……そう思ってるの……?」

「わからない……だけど……」

「自分ひとり幸せになる資格はない……そう、思うのね」

「小夜美さん……どうして?」

 自分の気持を正確に言い当てられたことより、その口調の静けさに、智也は驚いていた。こんなに暗く、悲しく、沈んだ小夜美の声を、智也は聞いたことがなかった。

「あたしもきっと……同じように考えてたから……」

「……え……?」

「弟は……たった15で死んだの……。あたし、何もしてあげなかった。何を考えているのか、わかろうとさえしていなかった。そんなあたしが……誰かを愛して……幸せにしてあげられるなんて……思えなかった……」

「小夜美さん……」

 小夜美の瞳から涙があふれ、頬を流れた。
 そして智也の顔を見上げ、微笑んだ。胸を切り裂かれるような、切ない笑みを。

「あたしたち、似たもの同士だったのかな」

「似たもの同士……?」

「そう……お互い、失ってしまったものの代わりを求めて……。あなたを愛することで、あたしは……贖罪をしているつもりだったのかも……。滑稽よね……ごめんなさい、智也クン……」

 静かに呟き続ける小夜美の姿は、幼い少女のようにか弱げで、触れたら壊れてしまいそうに儚かった。
 そんな小夜美を愛しく思う気持がこみ上げる一方で、智也の胸では先ほど考えまいとした想いが頭をもたげていた。
 そう、今の自分は、彩花とのことを思い出にして、新しい恋をしていけると思っていた。だけど本当は――。
 彩花の代わりに、そばにいてくれるひとがほしかった。
 そうではないのか。

「違う!」

 智也は口に出して叫んでいた。乱暴なほどに激しく、小夜美を抱きしめる。そして、もう一度、叫んだ。

「違う! 代わりなんかじゃない! 俺は、小夜美が……」

 好きなんだ、そう最後まで云い切れなかったのは、嗚咽になってしまったからか。それとも……。
 だが小夜美は、微笑んでいた。悲しみの只中にいながら、たったひとつ喜びを見出して。

「初めて……小夜美って呼んでくれたね」

「え……」

「嬉しい……、智也……」

「――小夜美!」

 智也は、小夜美に口づけをした。むさぼるように、激しく。小夜美もまたそれに応えた。

「小夜美……小夜美……小夜美……」

「智也……」

「小夜美……好きだ、小夜美……、愛してる……」

「ありがとう、智也……。あたしも……愛してる……」

 繰り返される口づけと愛の言葉。固い抱擁。
 そこに嘘はなかった。
 けれど、強く抱けば抱くほど、互いの唇をむさぼるほど、切なさだけが胸を浸していく。そんなもどかしさが、ふたりを放さなかった……。


to be continued...


2001.4.3

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