屋上のベンチに横になって、智也は冬の空を見上げていた。
今日もまた、雲ひとつなく晴れ渡っている。その蒼さが、目に染みた。
(あたしたち、似たもの同士なのかな)
小夜美の言葉が、忘れられない。
お互いに、失ったものの代わりを求めていただけなのか。
そんなことはない。そう強く叫んで、小夜美を抱いたけれど……。
小夜美を愛しく想う気持ちが大きくなればなるほど、心の中の暗い空洞もまた、大きくなっていく気がする。あんなにそばにいたいと願ったのに、そばにいるほど、切なさが増していく。
「それは、きっと俺が……」
「俺が……なに?」
思わず口をついて出た言葉に反応があり、智也は飛び起きた。
「なっ……!」
「わあ、びっくりした。どうしたのよ、いったい」
そこには、目を丸くして立つ音羽かおるがいた。
そういえば、ここは彼女の指定席だった。迂闊だったな、と智也は内心考えた。
「なんだ、かおるか。驚かすなよ」
「驚いたのはこっちだよ。黄昏てるから、どうしたのかと思ったら」
「冬の空を見ていると、センチメンタルになるだろ?」
「そういう柄?」
呆れたようにかおるは肩をすくめる。だがすぐに真顔に戻り、心配そうに眉をひそめた。
「どうしたの? 最近、変だよ。今坂さんもなんか元気ないし」
「……なんでもないって」
「そうは見えないから訊いてるんでしょ。隣の私にも云えないの?」
冗談めかして云ってはいるが、本当に心配してくれているということは、智也にもわかった。しかし、だからといって打ち明けるには、あまりに重過ぎる問題だった。
黙りこんでしまった智也の姿に軽くため息をつき、かおるは智也の隣に腰を下ろした。
「小夜美さんと、うまくいってないの?」
「……」
智也はやはり答えない。かおるは肩をすくめて、さっきまで智也が見上げていた空に目を向けた。
「小夜美さんがこの学校に来てたのって、すごく短い間だよね。その間に出会って、恋をしてって……なんか、ものすごい運命的じゃない? 映画みたいなそんな話、ほんとにあるんだって、私、ちょっと憧れてたんだ」
「……」
「……ま、私としては、転校生と恋に落ちるパターンのほうがよかったけど」
その呟きは小さすぎて、智也には聞き取れなかった。
「え?」
「ううん。だからさ、頑張りなよ。せっかくドラマチックに始まったんだから、盛り上げなきゃ」
購買でパンを取り置きしてもらったり、伝票整理を手伝うのがドラマチックなんだろうか、と考えて、智也は苦笑した。
だけど確かにあのときは、幸せだった。その笑顔が見られるだけで胸が満たされたし、そばにいて、その香りに触れるとドキドキした。
「……ドラマみたいには、いかないさ」
薄い笑みを浮かべて、智也は呟いた。その横顔を、かおるは悲しげに見つめた。
「それは、出演者次第だよ」
「……え?」
「――私、もう行くね。視聴者をあんまりがっかりさせないでよ」
智也から顔を背けるようにして立ち上がり、かおるは歩き去った。
ひとり取り残された智也は、再びベンチに寝転がって空を見上げた。
予鈴が鳴るのが聞こえたが、教室に戻る気にはなれなかった。
「運命的……か」
かおるの言葉を反芻する。
なにが運命なのだろう。
小夜美に出会えたことか。
……それとも、彩花を失ったことか。
これ以上、空の蒼さを見つめていると涙が出てきそうだったので、智也は固く目を閉じた。
*
結局、智也は午後の授業をすべてサボってしまった。かおるや唯笑と顔を合わせづらかったので、下校時間まで屋上で過ごしていた。
すでに日も落ちた暗い夜道を、ひとり歩いて帰る。
誰も待つ人のいない家――のはずだったが、今夜も、玄関前に立っている女性がいた。
「……小夜美」
「あ、お帰り」
うつむいていた小夜美が顔を上げ、笑顔で迎えてくれる。しかしその笑顔は、以前、購買で見ていたものとは違うように、智也には思えてしまった。
「どうしたんだよ、いったい」
「どうしたはご挨拶ね。せっかくご飯作りに来てあげたのに。嬉しくないの?」
「そりゃ嬉しいさ。だけど……」
智也も、ぎこちない笑みを浮かべる。
どこか白々しい間があることに、ふたりとも気づかない振りをしていた。
智也が鍵を開けて、ふたりで家の中に入る。
小夜美はまっすぐ台所へ向かい、手にしていた袋から食材を出して、早速準備を始めた。
智也は上着をソファに投げ出しつつ、そんな小夜美を見つめた。
「大学のほうは、大丈夫なのか?」
「……うん、なんとかね」
「無理するなよ」
「ありがと。でもね、やっぱりちょっと反省したの。最近、あたし、自分のことばっかりで、智也のこと大事にしてなかったって」
「そんなこと……」
小夜美の言葉に、智也の胸は痛んだ。わがままばかり云っていたのは、自分だ。それどころか、俺は……。
「だからね、少しでも一緒にいられる時間を増やしたいって、そう思ったの。あたしがそうしたいんだから、気にしないで」
「……でも、それじゃ小夜美の負担ばかり増えるじゃないか」
「そんなんじゃないよ。それに、あたしのほうが時間が自由になるから、ね。しょうがないよ」
「……」
小夜美の思いやりに素直に感謝できない自分自身に、智也は心底愛想が尽きていた。けれどどうしても、「ありがとう」という一言が云えなかった。
智也がうつむいて沈黙してしまったことに気づき、小夜美は調理の手を止めて振り返った。
「どうしたの、智也?」
「……やっぱり、おかしいよ、小夜美だけが不自由を我慢するなんて」
「だから、今はしょうがないよ」
「今は? じゃあ、いつになれば対等につきあえるんだ? 来年は俺は受験、再来年は小夜美は就職活動、そのあとは小夜美は社会人で、俺はまだ学生……。いつまで経っても、同じ立場になんか立てないじゃないか」
違う、こんなことを云いたいんじゃない。そう思いながらも、智也は止められなかった。
小夜美が唇を噛んで、調理を再開する。
「それが……歳の差だよ。しょうがないことなの」
「そんな……」
「それが嫌なら……じゃあ……おしまいにする?」
静かな一言だった。
その一言に、智也は凍りついたように動けなくなった。
小夜美も何も云わず、調理を続けた。
やがて食卓に料理を並べると、小夜美はエプロンを外し、自分の鞄を取った。
「遅くなるから、帰るね。冷めないうちに食べて。洗い物は……悪いけど、お願いね」
智也の目を見ずにそう云い残すと、小夜美は玄関に向かった。
智也はまだ立ち尽くしていたが、ドアを開ける音で我に返り、玄関に走った。
「小夜美! 待ってくれ、俺は……」
小夜美の腕をつかんで引き止める。
ゆっくり振り向いた小夜美の頬は、涙で濡れていた。
その悲しみに満ちた瞳に見つめられ、智也は、何を云う言葉もなかった。
引き止めた腕から、力が抜けていく。小夜美がそっとその腕をほどいて、歩いていった。
振り返らず去るその後姿を、智也はただ見つめるだけだった。
*
食卓に戻って、智也は箸を取った。
小夜美の料理に口をつける。
(……うまい)
どんな想いで、自分の帰りを待っていたのだろう。
どんな想いで、この料理を作ってくれたのだろう。
どんな想いで、夜道を帰っていったのだろう。
どんな想いで……あの、涙を……。
智也は肩を震わせて泣いた。
「バカだ……俺は……!」
何かが、壊れてしまった。かけがえのない、大切な、何かが――。