彼は彼女を救えるか

第五話 Memories Off

 朝はだいたい7時半ぐらいに起きる。珈琲とパンで手早く朝食をすませ、家を出るのが8時ぐらい。電車に乗って、学校にはホームルーム直前に到着する。授業にはほとんど身を入れず、終業後はまっすぐ帰宅する。
 それが三上智也の日常だった。毎日繰り返される、代わり映えのない日々。
 以前は駅前で待っていた幼馴染みが、今はいないことも。
 隣の席の転校生と、あまり話さなくなったことも。
 図書室に足を向けなくなったことも。
 すべて、いつの間にか慣れてしまい、「日常」の一部になっていく。
 ……購買部を避けて、いつも遠回りすることも。
 今日もまた、授業が終わるとすぐに智也は教室を出た。最近は信と遊ぶことさえ少なくなっていたが、それも心に止めるほどのことではない。
 そんな智也を、昇降口で待っている少女がいた。智也の姿を認めると、長い髪をツインテールにした頭をちょこんと下げた。

「みなもちゃん?」

「こんにちは、智也さん」

 みなもは相変わらず、太陽のように笑う。また最近まで入院していたはずだが、そんなことは微塵も感じさせなかった。その明るさと――強さに、智也は戸惑った笑みを浮かべた。

「どうしたの?」

「智也さんを、待ってたんです」

「……俺を?」

「はい!」

 何の屈託もなく笑顔で答えるみなもに対して、智也の戸惑いはさらに深くなった。
 ……もう、放っておいてほしいのに。
 そんな考えが、頭をかすめる。
 しかし、みなもは智也の胸の内など知らぬげに、先に歩き始めてしまった。やむなく、智也はその後に続いて校庭に出た。

「さむーい。もうすっかり冬ですねえ、智也さん」

「あ、ああ、そうだな」

「あれえ? どうしたんですか、智也さん。変ですよ?」

「変って……」

「?」

「その……みなもちゃんは、俺を待ってたんだろ? なんで?」

 居心地の悪さに耐えられず、智也は自分から切り出した。どんな話かは想像がついていたので、早く終わらせてしまいたかったのだ。もう、何を云われても、どうしようもないことだから。
 だがみなもは、智也の瞳をまっすぐ見つめながら、予想外の言葉を口にした。

「それは……わたしが、智也さんを好きだからです」

「なっ……」

 あまりに無邪気な告白に、智也は言葉を失った。一瞬、からかわれているのかと思ったが、そういう雰囲気でもないし、そもそもみなもは戯れでそういうことを云う娘ではない。
 みなもはただ笑顔を浮かべていた。

「好きな人と一緒にいたいって思うのは、当然でしょう?」

「……」

「好きなのに一緒にいないのって……、おかしいです」

「……」

 ……そういうことか。智也は小さな吐息とともに、自嘲気味の笑みを浮かべた。
 その表情を見て、みなもは悲しげに眉をひそめた。

「……唯笑から何か聞いたのか?」

「さあ。どうでしょう」

「俺のことはいいんだよ。もう……終わったことだからさ」

「……終わってなんかいません。だって、始まってもいないじゃないですか」

「……え?」

 みなもは毅然とした表情で、智也のことを見据えていた。
 けれど次の瞬間には小さく微笑み、智也から目をそらして冬の空を見上げた。
 そして、静かに、呟いた。

「智也さん、わたし、あとどれぐらい生きられると思いますか?」

「……!」

 さりげなく吐かれたその言葉。その重さに、智也は今度こそ絶句した。
 これまで、みなもがそんなことを口にすることはなかった。ただひたすら今日を、明日を掴むことだけを願っていたのに。

「なに……を……云って……」

「わからないですよね。わからないんです」

 智也の気休めの言葉など、みなもは聞いていなかった。ただ冬の空を見上げながら、話し続けた。

「病院のベッドで寝てるとね、怖くてたまらなくなるんです。もうここから出られないんじゃないか……、もうこのまま全部なくしてしまうんじゃないか……って……」

 その自分自身の言葉に恐怖したように、みなもの全身は震えた。それでも懸命にみなもは言葉を続けた。

「でも、でもね、それで負けてしまったら、ダメなんです。そこで負けてしまったら……本当に全部全部……なくなってしまうの……。だから……だから、今日、頑張らなきゃ……。明日は、わたしのものじゃないかもしれないけど……、今日は、今このときは、わたしの……」

 嗚咽にむせびそうになって、みなもは唇を噛んだ。
 そんなみなもを、智也は思わず抱きしめていた。

「もういい……もういいんだ、みなもちゃん……」

 だが、みなもは智也の腕を振りほどき、その胸を繰り返し叩いた。大粒の涙をこぼしながら。

「よくなんかない! 智也さんはずるいよ! まだなんにも始まってないのに! 智也さんと小夜美さんのキャンバスは、まだ真っ白なんだよ? これから……ふたりで描いていかなきゃ……いけないのに……」

 みなもに打たれるまま、智也は立ちつくしていた。その頬もまた、涙で濡れていた。

     *

 校庭のベンチで、智也はひとり座っていた。
 あのあと――。

「ごめんなさい、ひとりで大騒ぎしちゃって」

 しばらくしてようやく落ち着いたみなもは、恥ずかしそうに頬を染めてうつむいた。
 智也は首を横に振って、答えた。

「俺のほうこそ……ごめん。あんなこと……」

 将来への不安を口に出すこと。それはどんなことよりみなもにはつらかったはずだ。こんな小さな体で、ずっとずっと耐えていたのに。
 それでも、みなもは笑うのだ。

「平気です。じゃあわたし、帰りますね」

「あ……送っていこうか?」

「大丈夫です。……あんまり優しくされると……諦められなくなります」

「……え……?」

「えへへ」

 みなもは笑う。目に涙をためていても。

「わたし、智也さんが好きです。嘘じゃないよ」

「みなもちゃん……」

「唯笑ちゃんも、そう。みんな、智也さんのこと大事に想ってるの。そのことは、覚えていてね」

 振り向いて、みなもは小走りに去っていった。涙がこぼれ落ちるのを、智也に見せないために。
 智也はそばにあったベンチに腰掛けて、空を見上げた。

(覚えていてね)

 みなもの最後の言葉が、小さな棘のように胸に刺さっていた。
 けれどそれは、後悔や失意ではなく、ただほんの少しの悲しみと痛みを伴っていて――。

「彩花……」

 口に出して、その名を呼んでみる。
 同じように、小さな痛みが胸に走った。
 その痛みが、罪の証だと思っていた。その痛みを抱えたまま、誰かを愛することはできないと。
 だが、そうじゃなかった。その痛みは、受け止めきれなかった真心の欠片。忘れることなんてできない。忘れる必要なんて……ない。

(小夜美のことも……いつか、こうして……)

 そう考えると、今度もまた胸が痛んだ。
 しかしその痛みは、もっと切実な、文字どおり身を裂かれるような痛み。

(いやだ)

 智也は、心からそう思った。
 みなもの云うとおり、まだ何もはじまっていないのに。
 智也は立ち上がり、購買部へ向かった。そこへ行けば、自分の気持ちを確かめられるような気がした。

     *

 購買部はもう閉店しており、おばちゃんも帰宅してしまっていた。
 誰もいないその場所に佇み、智也は様々なことを思い出していた。

(あぁ、あなたが智也クンかぁ)

(そんなの間違えないよー! それはちょっとバカにしてるよね。ねー?)

(ねね、あたし今度ご飯つくってあげよっか?)

(そうそう、放課後。ちょーっとだけ、頼みたいことがあるんだー……)

(来てくれたんだね。小夜美、うれしいっ)

(いわばビューリホー女子大生ってとこね)

(あら、遠慮しなくていいのに。智也クンもまあまあかわいいよ)

(…………あとで電話するね)

 気がつけば、智也の顔には笑顔が浮かんでいた。
 懐かしい、というには、あまりに近すぎる日々。
 あの頃、ただ小夜美に逢いたくて購買に通った。ほかの誰でもない。小夜美の、そばにいたかった。
 そしてそれは、小夜美も同じだったはずだ。つきあいはじめてからも、あまり逢えない日が続いたけれど、だからこそ逢えたときの小夜美の笑顔は格別だった。
 そんな笑顔で待っていてくれることが、何より嬉しくて……。

(誰かの代わりだなんて……バカなことを考えたのは……ただ……怖かったから……)

 その笑顔がかけがえのないものだと認めてしまうことが。また同じ痛みを繰り返してしまうのではないかと。
 だけど、そうではなかった。明日のことはわからなくても、今日は、ふたりのものだから。
 智也は強い決意を面に表して、階段を上っていった。
 小夜美に逢う前に、もうひとつ、やっておくべきことがあった。

     *

 智也は、唯笑を捜していた。まだ学校にいるかもしれない、と思ってとりあえず教室に戻ると、想像通り、誰もいなくなった教室に、ひとり、座る唯笑を見つけた。
 声をかけようとして、智也は気づいた。唯笑の肩が震えている。手には写真か何かを持っているようだ。
 智也は後ろからそっと近づき、その写真を見てしまった。
 そこでは、3人の子供が、幸せそうに笑っていた。1人の男の子と、2人の女の子が。
 唯笑の涙の雫が、写真の上に落ちる。
 智也は、静かに声をかけた。

「……唯笑」

「とっ……智ちゃん?」

 唯笑が慌てて顔を上げると同時に、写真を隠そうとする。だが智也の表情から、すべて見られたと知り、うつむいた。涙を押しとどめようとするように、目を乱暴にこすった。

「ひどいよ……智ちゃん……。黙って見てるなんて……ひどい……」

「ごめん、唯笑……」

 智也は、ぽんと唯笑の頭に手を置いた。そのまま優しく撫でてやる。いつか、唯笑がそうしてくれたように。

「ごめん、唯笑」

 優しく微笑みながら、もう一度繰り返す智也を、唯笑は茫然と見上げた。
 智也は微笑んだままで、呟いた。

「唯笑、俺……小夜美が好きだ」

「智ちゃん……」

「小夜美のことが……好きなんだ」

 智也を見つめる唯笑の瞳から、また、涙がこぼれた。大粒の涙が、止めどなく流れる。けれど唯笑は、輝かしい笑顔を浮かべていた。

「なぁに、今頃そんなことに気づいたの? しょうがないなあ、智ちゃん」

「ほんっと……しょうがないな、俺は」

「ほんとだよ……。でも……よかった……ほんとに……」

「唯笑……」

 唯笑は手にしていた写真に視線を落とした。笑顔の3人を愛おしむように、写真の表面を撫でた。

「よかった……。唯笑ね、この写真見ると、ほんとにつらかったんだ……。こんな風に過ごしていなければ、よかったのかなって……。こんな時代がなければ……智ちゃん、苦しまなかったのにっ……て……」

 また、胸がちくりと痛む。
 智也は目を閉じて、想いを馳せた。

「……バカだな。この頃のことは……彩花のことはみんな……いい思い出だよ……」

「思い出……そう……そうだよね……」

 唯笑は強く頷いた。
 忘れることも捨てることもできない。だけどそれだけを見ていることもできない。それが思い出。
 唯笑は涙を拭いて、微笑んだ。

「小夜美さんには、もう?」

「いや……まだ」

「もう……順番が逆じゃないの? ほんっとしょうがないんだから」

「……彩花みたいな口の利き方だなあ」

「いいからっ。早く行っといでよぉ」

「はいはい。……でも」

 ふっと、智也は暗い顔になった。唯笑の前では、どうしても迷いや弱さを隠せない。

「許して……もらえるかな」

 その呟きに、唯笑は苦笑しながら肩をすくめた。そして鞄から何かを取り出し、智也に向けて差し出した。

「もう、まだそんなこと云ってるの? そんなしょうがない智ちゃんに、唯笑からスペシャルなプレゼント!」

「……え?」

「マリンパークのチケットだよ。口実にはなるでしょ。みなもちゃんと行こうかって云ってたんだけど、特別にあげちゃう」

「唯笑……」

 震える手で、智也はチケットを受け取った。
 初めてのデートの場所。そして、最後のデート……と云われた場所。
 そのことが、智也の背中に最後の一押しをくれた。

「ありがとう、唯笑」

「……ううん。頑張ってね、智ちゃん」

「おう」

 笑顔を浮かべ、智也は片手をあげて教室を出ていった。
 智也のそんな笑顔を見たのは、本当に久しぶりだった。だから、唯笑は……どうしても、泣いてしまった。
 唯笑の恋が、本当に終わった日だったから。

「唯笑は……いつも笑ってなくちゃいけないのにね……。ごめんね、智ちゃん……。今日だけ……今だけだから……」

 夕日の差す教室で、唯笑はひとり泣き続けた。

     *

 小夜美の家は、学校のすぐ裏にある。そのため、十分な心の準備をする前に、智也はその家の前まで来てしまった。
 呼び鈴に伸ばす手が震える。
 小夜美は、いるだろうか? いたとしても、逢ってくれるだろうか?
 怖かった。だけど、智也はもう逃げなかった。
 そばにいてくれる人たちの想いに、支えられていたから。
 人差し指を、押し込む。ピンポーン、と軽い音が響いた。
 しばしの沈黙。そして。

「はーい」

 その声に、智也の心臓は激しく高鳴った。心音が外まで聞こえるのではないかと思った。
 足音が玄関に近づいてくる。このドアのすぐ向こうに、小夜美がいるはずだった。

「どなたですか?」

 喉がからからに渇いて、声がなかなか出せなかった。智也は震える声で、あの日のように、名乗った。

「み、三上ですけど」

「みかみって……智也!?」

 小夜美が息を飲むのがわかった。
 だが次の瞬間、智也の予想を裏切って、扉はすぐに開かれた。
 そこに立っているのが本当に智也なのかどうか確かめるように、小夜美は智也の全身を眺めた。そして、安堵したような、泣き出しそうな、不思議な笑顔を浮かべた。
 もっとも、智也自身も同じような顔をしていたかもしれない。

「どうしたの?」

 小夜美の問いかけに対して、智也は黙って唯笑からもらったチケットを差し出した。

「これ……?」

「小夜美と、行きたいんだ」

 小夜美が智也の顔を見上げる。戸惑いが、隠しようもなく表れていた。

「今度の日曜日、小夜美と一緒に行きたい」

 小夜美の目をまっすぐに見て、智也は繰り返した。
 小夜美もまた目を逸らさず、智也を見つめた。云うべき言葉を一所懸命探しているように、何度か口を開きかけては唇を噛みしめた。
 その様子に、智也は小さく微笑んだ。

「返事は……あとでいいよ」

 智也の言葉に、小夜美はついほっとため息をついてしまった。慌てて申し訳なさそうに智也を見上げたが、智也は笑顔のままだった。

「ん……わかった。じゃあ……あとで電話するね」

「いや……俺が、電話する」

「え?」

「俺が、土曜の夜に、電話するよ。そのとき……返事、聞かせてほしい」

「う、うん……」

 小夜美は少し気圧される感じで、頷いた。
 智也は最後にもう一度微笑むと、別れを告げた。

「じゃあ、今日はこれで。急にごめんな」

「ううん……。じゃあ……」

 ありがと。うつむいて云った小夜美の最後の言葉は、智也には聞き取れなかった。
 智也の姿が見えなくなっても、小夜美はしばらくそこに立ち尽くしていた。

     *

 智也は夕方からずっと、電話の前に座り込んでいた。
 今日が、約束の日だ。電話をかけて、小夜美の返事を聞かなければならない。
 受話器を取っては、戻す。途中までボタンを押し、受話器を置く。
 そんなことを、もう何度も繰り返していた。

(自分から電話するなんて……大見得切っといて……)

 己の不甲斐なさに渇を入れて、智也は受話器を取り上げた。今度こそ、と決意を込めてダイヤルボタンを押そうとしたとき。
 玄関のチャイムが、鳴った。
 その絶妙なタイミングに、思わず智也は受話器を戻してしまった。
 肩を落として、ため息をつく。
 もう一度、チャイムが鳴った。

「……なんだよ、こんな時間に」

 憮然とした表情で玄関まで歩き、乱暴な手つきでドアを開け――、言葉を、失った。

「……やっ」

 いつもの照れ笑いを浮かべる小夜美が、そこにいた。

「小夜美……」

「えへへ。電話……待ちきれなくなっちゃって。来ちゃった。悔しいけど……今回は、あたしの負けかな」

「……」

 智也は何も云わず、小夜美を抱きしめた。
 小夜美も智也の背にそっと腕を回した。

「……好きだ、小夜美」

「……うん」

「小夜美に……そばにいてほしい」

「……うん」

「ずっと……ずっと一緒にいたいんだ、小夜美と……」

「うん……うん、わかってる。わかってたよ、そんなこと……」

「わかってた……?」

 小夜美は少し体を離して、智也の顔を見上げた。微笑むその瞳から、涙の雫が流れた。

「うん、わかってた……。だって……あたしも、そう思ってたから……」

「小夜美……」

 目を閉じた小夜美に、智也はそっと口づけた。
 優しく、短いキス。
 見つめ合ったあと、小夜美がいたずらっぽく微笑んだ。

「改めてよろしくねのキス?」

「二度と離さないのキス」

「……うわぁ、気障。似合わないよー」

「……ちぇっ」

「うそうそ。明日はまたマリンパークだね。楽しみ」

「……ジェットコースターは3回までな」

「うっそお。5回は乗らないとモト取れないよぉ」

「3回乗れば取れる……って、なんで行くたびに乗る回数増えてるんだよ?」

「あはは。ばれたか」

「……ったく……」

 どちらからともなく、ふと夜空を見上げた。
 冬の空は澄み切って、星々が冷たい瞬きを放っている。
 智也は、そっと小夜美の手を握った。
 小夜美は微笑んで、智也に寄り添った。


Memories Off
Scenario for KOYOMI KIRISHIMA
"I LOVE YOU"
end


2001.4.10


あとがき

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