朝はだいたい7時半ぐらいに起きる。珈琲とパンで手早く朝食をすませ、家を出るのが8時ぐらい。電車に乗って、学校にはホームルーム直前に到着する。授業にはほとんど身を入れず、終業後はまっすぐ帰宅する。
それが三上智也の日常だった。毎日繰り返される、代わり映えのない日々。
以前は駅前で待っていた幼馴染みが、今はいないことも。
隣の席の転校生と、あまり話さなくなったことも。
図書室に足を向けなくなったことも。
すべて、いつの間にか慣れてしまい、「日常」の一部になっていく。
……購買部を避けて、いつも遠回りすることも。
今日もまた、授業が終わるとすぐに智也は教室を出た。最近は信と遊ぶことさえ少なくなっていたが、それも心に止めるほどのことではない。
そんな智也を、昇降口で待っている少女がいた。智也の姿を認めると、長い髪をツインテールにした頭をちょこんと下げた。
「みなもちゃん?」
「こんにちは、智也さん」
みなもは相変わらず、太陽のように笑う。また最近まで入院していたはずだが、そんなことは微塵も感じさせなかった。その明るさと――強さに、智也は戸惑った笑みを浮かべた。
「どうしたの?」
「智也さんを、待ってたんです」
「……俺を?」
「はい!」
何の屈託もなく笑顔で答えるみなもに対して、智也の戸惑いはさらに深くなった。
……もう、放っておいてほしいのに。
そんな考えが、頭をかすめる。
しかし、みなもは智也の胸の内など知らぬげに、先に歩き始めてしまった。やむなく、智也はその後に続いて校庭に出た。
「さむーい。もうすっかり冬ですねえ、智也さん」
「あ、ああ、そうだな」
「あれえ? どうしたんですか、智也さん。変ですよ?」
「変って……」
「?」
「その……みなもちゃんは、俺を待ってたんだろ? なんで?」
居心地の悪さに耐えられず、智也は自分から切り出した。どんな話かは想像がついていたので、早く終わらせてしまいたかったのだ。もう、何を云われても、どうしようもないことだから。
だがみなもは、智也の瞳をまっすぐ見つめながら、予想外の言葉を口にした。
「それは……わたしが、智也さんを好きだからです」
「なっ……」
あまりに無邪気な告白に、智也は言葉を失った。一瞬、からかわれているのかと思ったが、そういう雰囲気でもないし、そもそもみなもは戯れでそういうことを云う娘ではない。
みなもはただ笑顔を浮かべていた。
「好きな人と一緒にいたいって思うのは、当然でしょう?」
「……」
「好きなのに一緒にいないのって……、おかしいです」
「……」
……そういうことか。智也は小さな吐息とともに、自嘲気味の笑みを浮かべた。
その表情を見て、みなもは悲しげに眉をひそめた。
「……唯笑から何か聞いたのか?」
「さあ。どうでしょう」
「俺のことはいいんだよ。もう……終わったことだからさ」
「……終わってなんかいません。だって、始まってもいないじゃないですか」
「……え?」
みなもは毅然とした表情で、智也のことを見据えていた。
けれど次の瞬間には小さく微笑み、智也から目をそらして冬の空を見上げた。
そして、静かに、呟いた。
「智也さん、わたし、あとどれぐらい生きられると思いますか?」
「……!」
さりげなく吐かれたその言葉。その重さに、智也は今度こそ絶句した。
これまで、みなもがそんなことを口にすることはなかった。ただひたすら今日を、明日を掴むことだけを願っていたのに。
「なに……を……云って……」
「わからないですよね。わからないんです」
智也の気休めの言葉など、みなもは聞いていなかった。ただ冬の空を見上げながら、話し続けた。
「病院のベッドで寝てるとね、怖くてたまらなくなるんです。もうここから出られないんじゃないか……、もうこのまま全部なくしてしまうんじゃないか……って……」
その自分自身の言葉に恐怖したように、みなもの全身は震えた。それでも懸命にみなもは言葉を続けた。
「でも、でもね、それで負けてしまったら、ダメなんです。そこで負けてしまったら……本当に全部全部……なくなってしまうの……。だから……だから、今日、頑張らなきゃ……。明日は、わたしのものじゃないかもしれないけど……、今日は、今このときは、わたしの……」
嗚咽にむせびそうになって、みなもは唇を噛んだ。
そんなみなもを、智也は思わず抱きしめていた。
「もういい……もういいんだ、みなもちゃん……」
だが、みなもは智也の腕を振りほどき、その胸を繰り返し叩いた。大粒の涙をこぼしながら。
「よくなんかない! 智也さんはずるいよ! まだなんにも始まってないのに! 智也さんと小夜美さんのキャンバスは、まだ真っ白なんだよ? これから……ふたりで描いていかなきゃ……いけないのに……」
みなもに打たれるまま、智也は立ちつくしていた。その頬もまた、涙で濡れていた。
*
校庭のベンチで、智也はひとり座っていた。
あのあと――。
「ごめんなさい、ひとりで大騒ぎしちゃって」
しばらくしてようやく落ち着いたみなもは、恥ずかしそうに頬を染めてうつむいた。
智也は首を横に振って、答えた。
「俺のほうこそ……ごめん。あんなこと……」
将来への不安を口に出すこと。それはどんなことよりみなもにはつらかったはずだ。こんな小さな体で、ずっとずっと耐えていたのに。
それでも、みなもは笑うのだ。
「平気です。じゃあわたし、帰りますね」
「あ……送っていこうか?」
「大丈夫です。……あんまり優しくされると……諦められなくなります」
「……え……?」
「えへへ」
みなもは笑う。目に涙をためていても。
「わたし、智也さんが好きです。嘘じゃないよ」
「みなもちゃん……」
「唯笑ちゃんも、そう。みんな、智也さんのこと大事に想ってるの。そのことは、覚えていてね」
振り向いて、みなもは小走りに去っていった。涙がこぼれ落ちるのを、智也に見せないために。
智也はそばにあったベンチに腰掛けて、空を見上げた。
(覚えていてね)
みなもの最後の言葉が、小さな棘のように胸に刺さっていた。
けれどそれは、後悔や失意ではなく、ただほんの少しの悲しみと痛みを伴っていて――。
「彩花……」
口に出して、その名を呼んでみる。
同じように、小さな痛みが胸に走った。
その痛みが、罪の証だと思っていた。その痛みを抱えたまま、誰かを愛することはできないと。
だが、そうじゃなかった。その痛みは、受け止めきれなかった真心の欠片。忘れることなんてできない。忘れる必要なんて……ない。
(小夜美のことも……いつか、こうして……)
そう考えると、今度もまた胸が痛んだ。
しかしその痛みは、もっと切実な、文字どおり身を裂かれるような痛み。
(いやだ)
智也は、心からそう思った。
みなもの云うとおり、まだ何もはじまっていないのに。
智也は立ち上がり、購買部へ向かった。そこへ行けば、自分の気持ちを確かめられるような気がした。
*
購買部はもう閉店しており、おばちゃんも帰宅してしまっていた。
誰もいないその場所に佇み、智也は様々なことを思い出していた。
(あぁ、あなたが智也クンかぁ)
(そんなの間違えないよー! それはちょっとバカにしてるよね。ねー?)
(ねね、あたし今度ご飯つくってあげよっか?)
(そうそう、放課後。ちょーっとだけ、頼みたいことがあるんだー……)
(来てくれたんだね。小夜美、うれしいっ)
(いわばビューリホー女子大生ってとこね)
(あら、遠慮しなくていいのに。智也クンもまあまあかわいいよ)
(…………あとで電話するね)
気がつけば、智也の顔には笑顔が浮かんでいた。
懐かしい、というには、あまりに近すぎる日々。
あの頃、ただ小夜美に逢いたくて購買に通った。ほかの誰でもない。小夜美の、そばにいたかった。
そしてそれは、小夜美も同じだったはずだ。つきあいはじめてからも、あまり逢えない日が続いたけれど、だからこそ逢えたときの小夜美の笑顔は格別だった。
そんな笑顔で待っていてくれることが、何より嬉しくて……。
(誰かの代わりだなんて……バカなことを考えたのは……ただ……怖かったから……)
その笑顔がかけがえのないものだと認めてしまうことが。また同じ痛みを繰り返してしまうのではないかと。
だけど、そうではなかった。明日のことはわからなくても、今日は、ふたりのものだから。
智也は強い決意を面に表して、階段を上っていった。
小夜美に逢う前に、もうひとつ、やっておくべきことがあった。
*
智也は、唯笑を捜していた。まだ学校にいるかもしれない、と思ってとりあえず教室に戻ると、想像通り、誰もいなくなった教室に、ひとり、座る唯笑を見つけた。
声をかけようとして、智也は気づいた。唯笑の肩が震えている。手には写真か何かを持っているようだ。
智也は後ろからそっと近づき、その写真を見てしまった。
そこでは、3人の子供が、幸せそうに笑っていた。1人の男の子と、2人の女の子が。
唯笑の涙の雫が、写真の上に落ちる。
智也は、静かに声をかけた。
「……唯笑」
「とっ……智ちゃん?」
唯笑が慌てて顔を上げると同時に、写真を隠そうとする。だが智也の表情から、すべて見られたと知り、うつむいた。涙を押しとどめようとするように、目を乱暴にこすった。
「ひどいよ……智ちゃん……。黙って見てるなんて……ひどい……」
「ごめん、唯笑……」
智也は、ぽんと唯笑の頭に手を置いた。そのまま優しく撫でてやる。いつか、唯笑がそうしてくれたように。
「ごめん、唯笑」
優しく微笑みながら、もう一度繰り返す智也を、唯笑は茫然と見上げた。
智也は微笑んだままで、呟いた。
「唯笑、俺……小夜美が好きだ」
「智ちゃん……」
「小夜美のことが……好きなんだ」
智也を見つめる唯笑の瞳から、また、涙がこぼれた。大粒の涙が、止めどなく流れる。けれど唯笑は、輝かしい笑顔を浮かべていた。
「なぁに、今頃そんなことに気づいたの? しょうがないなあ、智ちゃん」
「ほんっと……しょうがないな、俺は」
「ほんとだよ……。でも……よかった……ほんとに……」
「唯笑……」
唯笑は手にしていた写真に視線を落とした。笑顔の3人を愛おしむように、写真の表面を撫でた。
「よかった……。唯笑ね、この写真見ると、ほんとにつらかったんだ……。こんな風に過ごしていなければ、よかったのかなって……。こんな時代がなければ……智ちゃん、苦しまなかったのにっ……て……」
また、胸がちくりと痛む。
智也は目を閉じて、想いを馳せた。
「……バカだな。この頃のことは……彩花のことはみんな……いい思い出だよ……」
「思い出……そう……そうだよね……」
唯笑は強く頷いた。
忘れることも捨てることもできない。だけどそれだけを見ていることもできない。それが思い出。
唯笑は涙を拭いて、微笑んだ。
「小夜美さんには、もう?」
「いや……まだ」
「もう……順番が逆じゃないの? ほんっとしょうがないんだから」
「……彩花みたいな口の利き方だなあ」
「いいからっ。早く行っといでよぉ」
「はいはい。……でも」
ふっと、智也は暗い顔になった。唯笑の前では、どうしても迷いや弱さを隠せない。
「許して……もらえるかな」
その呟きに、唯笑は苦笑しながら肩をすくめた。そして鞄から何かを取り出し、智也に向けて差し出した。
「もう、まだそんなこと云ってるの? そんなしょうがない智ちゃんに、唯笑からスペシャルなプレゼント!」
「……え?」
「マリンパークのチケットだよ。口実にはなるでしょ。みなもちゃんと行こうかって云ってたんだけど、特別にあげちゃう」
「唯笑……」
震える手で、智也はチケットを受け取った。
初めてのデートの場所。そして、最後のデート……と云われた場所。
そのことが、智也の背中に最後の一押しをくれた。
「ありがとう、唯笑」
「……ううん。頑張ってね、智ちゃん」
「おう」
笑顔を浮かべ、智也は片手をあげて教室を出ていった。
智也のそんな笑顔を見たのは、本当に久しぶりだった。だから、唯笑は……どうしても、泣いてしまった。
唯笑の恋が、本当に終わった日だったから。
「唯笑は……いつも笑ってなくちゃいけないのにね……。ごめんね、智ちゃん……。今日だけ……今だけだから……」
夕日の差す教室で、唯笑はひとり泣き続けた。
*
小夜美の家は、学校のすぐ裏にある。そのため、十分な心の準備をする前に、智也はその家の前まで来てしまった。
呼び鈴に伸ばす手が震える。
小夜美は、いるだろうか? いたとしても、逢ってくれるだろうか?
怖かった。だけど、智也はもう逃げなかった。
そばにいてくれる人たちの想いに、支えられていたから。
人差し指を、押し込む。ピンポーン、と軽い音が響いた。
しばしの沈黙。そして。
「はーい」
その声に、智也の心臓は激しく高鳴った。心音が外まで聞こえるのではないかと思った。
足音が玄関に近づいてくる。このドアのすぐ向こうに、小夜美がいるはずだった。
「どなたですか?」
喉がからからに渇いて、声がなかなか出せなかった。智也は震える声で、あの日のように、名乗った。
「み、三上ですけど」
「みかみって……智也!?」
小夜美が息を飲むのがわかった。
だが次の瞬間、智也の予想を裏切って、扉はすぐに開かれた。
そこに立っているのが本当に智也なのかどうか確かめるように、小夜美は智也の全身を眺めた。そして、安堵したような、泣き出しそうな、不思議な笑顔を浮かべた。
もっとも、智也自身も同じような顔をしていたかもしれない。
「どうしたの?」
小夜美の問いかけに対して、智也は黙って唯笑からもらったチケットを差し出した。
「これ……?」
「小夜美と、行きたいんだ」
小夜美が智也の顔を見上げる。戸惑いが、隠しようもなく表れていた。
「今度の日曜日、小夜美と一緒に行きたい」
小夜美の目をまっすぐに見て、智也は繰り返した。
小夜美もまた目を逸らさず、智也を見つめた。云うべき言葉を一所懸命探しているように、何度か口を開きかけては唇を噛みしめた。
その様子に、智也は小さく微笑んだ。
「返事は……あとでいいよ」
智也の言葉に、小夜美はついほっとため息をついてしまった。慌てて申し訳なさそうに智也を見上げたが、智也は笑顔のままだった。
「ん……わかった。じゃあ……あとで電話するね」
「いや……俺が、電話する」
「え?」
「俺が、土曜の夜に、電話するよ。そのとき……返事、聞かせてほしい」
「う、うん……」
小夜美は少し気圧される感じで、頷いた。
智也は最後にもう一度微笑むと、別れを告げた。
「じゃあ、今日はこれで。急にごめんな」
「ううん……。じゃあ……」
ありがと。うつむいて云った小夜美の最後の言葉は、智也には聞き取れなかった。
智也の姿が見えなくなっても、小夜美はしばらくそこに立ち尽くしていた。
*
智也は夕方からずっと、電話の前に座り込んでいた。
今日が、約束の日だ。電話をかけて、小夜美の返事を聞かなければならない。
受話器を取っては、戻す。途中までボタンを押し、受話器を置く。
そんなことを、もう何度も繰り返していた。
(自分から電話するなんて……大見得切っといて……)
己の不甲斐なさに渇を入れて、智也は受話器を取り上げた。今度こそ、と決意を込めてダイヤルボタンを押そうとしたとき。
玄関のチャイムが、鳴った。
その絶妙なタイミングに、思わず智也は受話器を戻してしまった。
肩を落として、ため息をつく。
もう一度、チャイムが鳴った。
「……なんだよ、こんな時間に」
憮然とした表情で玄関まで歩き、乱暴な手つきでドアを開け――、言葉を、失った。
「……やっ」
いつもの照れ笑いを浮かべる小夜美が、そこにいた。
「小夜美……」
「えへへ。電話……待ちきれなくなっちゃって。来ちゃった。悔しいけど……今回は、あたしの負けかな」
「……」
智也は何も云わず、小夜美を抱きしめた。
小夜美も智也の背にそっと腕を回した。
「……好きだ、小夜美」
「……うん」
「小夜美に……そばにいてほしい」
「……うん」
「ずっと……ずっと一緒にいたいんだ、小夜美と……」
「うん……うん、わかってる。わかってたよ、そんなこと……」
「わかってた……?」
小夜美は少し体を離して、智也の顔を見上げた。微笑むその瞳から、涙の雫が流れた。
「うん、わかってた……。だって……あたしも、そう思ってたから……」
「小夜美……」
目を閉じた小夜美に、智也はそっと口づけた。
優しく、短いキス。
見つめ合ったあと、小夜美がいたずらっぽく微笑んだ。
「改めてよろしくねのキス?」
「二度と離さないのキス」
「……うわぁ、気障。似合わないよー」
「……ちぇっ」
「うそうそ。明日はまたマリンパークだね。楽しみ」
「……ジェットコースターは3回までな」
「うっそお。5回は乗らないとモト取れないよぉ」
「3回乗れば取れる……って、なんで行くたびに乗る回数増えてるんだよ?」
「あはは。ばれたか」
「……ったく……」
どちらからともなく、ふと夜空を見上げた。
冬の空は澄み切って、星々が冷たい瞬きを放っている。
智也は、そっと小夜美の手を握った。
小夜美は微笑んで、智也に寄り添った。