冬の陽は短い。
すでに薄暗くなった昇降口で、今日も彼、稲穂信は靴箱にもたれて立っていた。
真剣な、そして少し憂いを含んだその横顔は、それなりに美形と言えなくもない。事実、信はもてるほうだった。
だが、これまで信は軽そうに振る舞ってはいても、誰かを真剣に恋したりはしなかった。まるで自分をそう戒めているように。――今年の秋が、来るまでは。
階段を下りてくる足音がする。信は面を上げ、期待通りの姿が現れると、たちまち破顔した。
「お疲れ、詩音ちゃん」
「お待たせしました」
相変わらず両手にいっぱいの本を抱えた双海詩音は、本の陰から顔を覗かせて、微笑んだ。教室では滅多に見られないその笑顔を向けられると、信は思わず小躍りしたくなる。もちろん実際にやれば呆れてため息をつかれるのがわかっているので、信は平静を装いつつ、本の山を受け取った。
「ありがとうございます」
「とんでもない。行こうか」
「はい」
そうしていつも通り、ふたりは肩を並べて駅までの道を帰るのだった。
放課後、待ち合わせて、信が詩音の荷物を持って帰る。それはもうすっかり日常の風景と化していた。しかし、
「結局、つきあってるの?」
と、唯笑や智也に訊かれると、ふたりとも頷くことはできない。そんな微妙な関係が続いていた。
「……もう、昇降口で待っているのは、寒いのではないですか? 図書館にいてくださればいいのに……」
信の横顔を見上げながら、詩音が訊いた。気遣わしげな視線に照れながら、信は頭をかいた。
「いやー、どうも俺、あの場所の緊張感に馴染めなくってさ」
「三上くんは平気で居眠りしてましたけど……、あ……」
おどけてみせる信に苦笑しつつ、つい口にしてしまったその言葉。その名前に、慌てて詩音は口をつぐむ。
信は笑顔のまま、黙っていた。
「……ごめんなさい」
「なにが?」
何事もなかったように、信は笑う。智也はバカだからな、場の空気が読めないんだろ、という信の冗談に笑顔を返しつつ、詩音の胸は痛んだ。
私は卑怯だ、と詩音は思う。彼の優しさに甘えて、彼を傷つけている。彼が図書館に来ようとしないのも、きっと智也を重ねて見られるのが嫌なのだろう。
……だけど。だけど、私は――。
「詩音ちゃんはさ、日本で年越ししたことあるの?」
「――え?」
物思いに沈んでいた詩音は、ふいに声をかけられて、弾かれたように顔を上げた。笑顔の信と目が合う。話題を変えてくれた信の気遣いに、また胸が痛んだが、それを気取らせないことが唯一彼のためにできることだと考えた。
「いいえ、まだありません」
「そっか、じゃあ紅白見て、ソバ食って、除夜の鐘聞くのも今年が初めてなんだな」
「……それが、日本の伝統行事なのですか?」
「うーん、まあ、そんなもんかな」
相変わらずの詩音のズレ方に苦笑したあと、信はほんの少し真顔になって、詩音を見つめた。
「初詣、一緒に行けるといいな」
「……はい」
頷いたのは、確かに詩音の正直な気持ちだった。
*
駅のホームで、詩音と信は並んで電車を待っていた。
電車が来たら、それで今日はさよならだ。ふたりは、乗る電車の向きが逆だった。信は家まで詩音を送りたがったが、そこまでしてもらうわけにはいかない、と詩音はいつも固辞していた。
「日本のお正月、楽しみです」
先ほどの話を思い出して、詩音が言った。信も笑顔で頷く。
「詩音ちゃんなら、きっと振り袖も似合うんだろうな」
「……そんなこと……」
赤くなってうつむく詩音。その姿に、信はもう鼻の下を伸ばしっぱなしだった。
「……そ、それより、年が明けたら、もう受験のことを考えなきゃいけませんよね」
「うっ……嫌なこと思い出させるなあ」
照れ隠しに詩音が切り替えた話題に、信は一気に現実に引き戻されて顔をしかめた。しかし、詩音は恐ろしいほど真剣な顔になっていた。
「日本の受験地獄は大変なものだそうですね。朝から晩まで、日曜まで塾に通って……」
「し、詩音ちゃん?」
「そんな生活を強いられたら、本を読む時間がなくなって困ります」
深い憂いを込めて、詩音がほうとため息をつく。本気だとわかったから、信は思わず吹き出してしまった。
「……何がおかしいんですか?」
怪訝そうに、そして少し拗ねたような調子を声に込めて、詩音が信を横目で伺った。そんな表情が、信にはたまらなく可愛い。笑いを治めるのに苦労しつつ、信は何度も頭を下げた。
「ごめんごめん。でも、詩音ちゃんなら頭いいから、そんな心配しなくて大丈夫だよ」
「そうでしょうか」
まだ釈然としない様子で、詩音は首を傾げた。そして、今度はいつの間にか信のほうが真剣な表情で、じっと自分を見つめていることに気づいた。
「稲穂さん?」
「あ……ごめん、えっと……詩音ちゃんは、さ」
「はい」
「その……大学は、日本で行くつもりなの? もし、お父さんがまた、仕事の都合で引っ越しても……」
「……」
正直、それはまだ決めあぐねていた。もしそうなったとき、日本に一人残るのは不安だったし、父を一人で行かせるのも忍びなかった。環境的にも、日本より海外の大学のほうがいいように思える。
けれど、気がつくと詩音は、笑顔で頷いてしまっていた。
「そのつもりです」
「そ……そっか。はは……よかった」
文字どおり満面の笑顔で、信はよかったと何度も繰り返して頷いた。
自分がここにいることをこんなに望んでくれる。そのことを嬉しく思いながらも、詩音の胸は再び痛んだ。
「じゃあさ、行きたい大学とかあるの?」
「それはまだ……」
「そうだよな。じゃあ、やりたいこととかは?」
詩音の屈託に気づかない様子で、信は話を続けた。
将来の夢、やりたいこと、そんな話を誰かと語り合ったこともなかった……、詩音は自分の変化に、今更ながら少し驚いていた。
「そうですね……。やはり、本に関わる仕事がしたいと思います」
「やっぱり、そうか。出版社とか?」
「どちらかといえば……図書館司書のような……」
「なるほどー。司書か、なんかかっこいいな」
「そんな……」
いつも自分の云うことに大袈裟に感心する信の態度に、詩音はまた少し頬を赤くした。信の言葉であれば、嫌みに聞こえない。それも詩音には不思議だった。
「稲穂さんは、どうなのですか?」
「俺? 俺は……」
問い返され、信は目を丸くした。そして、眉を寄せて少しの間考え込んだあと、薄く笑って空を見上げた。
その笑顔に、らしくない翳りを感じて、詩音は不安な気持ちになった。
「稲穂さん?」
「俺は……何をどうしようか……」
「え……?」
詩音が聞き返そうとしたとき、アナウンスが流れ、電車が近づいてきた。
信は残念そうな、けれどどこかほっとしたような表情で、詩音に荷物を渡した。
「じゃあ、また明日。気をつけて」
「……はい。ごきげんよう」
信のその表情が引っかかったが、それを問いただすことは、今の詩音にはまだできなかった。
電車に乗り込み、軽く頭を下げた詩音の前で、ドアは閉まった。走り去る電車を、ホームに立ったまま見送る信を、詩音もまた電車の窓からずっと見ていた。
別れ際の信の表情が、やはり気になった。けれど、今の自分には、まだそこまで彼の心に踏み込む資格はないように思える。こんな曖昧な気持ちのままでは。
――もういい加減、はっきりした答えを彼に返さなければいけない。詩音はそう考えて、唇を噛んだ。
だけど、もう少し。もう少しだけ、この心地よい時間に立ち止まっていたい。そんな身勝手は許されないだろうか。
不安と、焦りと、切なさとを込めて、詩音はまた大きくため息をついた。
それは予感だったのかも知れない。
痛みは、すぐ近くに来ていた。
*
「よっと……こんなもんかな?」
「そうですね。あと1軒回ったら、休憩して、お茶にしましょうか」
「……ってことは、そのあともまだまだ?」
「もちろんです」
「……詩音ちゃん、ほんとにそのうち、床が抜けるよ」
日曜日の昼下がり。詩音と信はこれまた定番となった、書店周りをしていた。信は相変わらず荷物持ちだったが、詩音と二人で出かけられるなら、不満はなかった。
――けれど、詩音のほうの気持ちは、少し違っていた。いたずらっぽい笑みを浮かべていたのに、ふと何かに気づいた様子でうつむいてしまう。信は首を傾げて、その横顔を見た。
「詩音ちゃん?」
「あ……ごめんなさい。いつも、私の用事につきあわせてしまって……。稲穂さんがほかに、行きたいところがあれば……」
「そんなことか。いいよ、気にしなくて」
「でも……」
「俺は詩音ちゃんといられれば、それでいいよ」
何のてらいもなく、笑顔でそう口にする信に、詩音は赤くなって沈黙してしまった。さらに、
「どうしたの? 最近、なんか変だよ?」
と、笑顔のまま顔を覗き込まれ、慌てて詩音は目をそらした。
「そ……そんなことありません」
「そう?」
「そうです。それじゃ、私がまるで人に気を遣わない人間みたいじゃないですか」
照れ隠しに、わざと怒ったような口調で云う。そんな不器用さが詩音は自分でも腹立たしかったが、信は変わらず笑顔のままだった。
「ごめんごめん、そうじゃないんだけどさ。でもほんと、気遣わないでよ。俺が、詩音ちゃんといたいんだ」
「稲穂さん……」
私だって……、信の笑顔につられて、思わず詩音がそう答えそうになったとき。
「信……?」
「え?」
背後から信を呼ぶ声に、二人は同時に振り向いた。そして、その瞬間、信の笑顔は凍り、蒼白になった。
そこには長い黒髪と、やや切れ上がった瞳がきつい印象を与える、美しい少女がいた。しなやかな体つきからも、気むずかしい猫を連想させる。歳は、詩音たちと同じぐらいだろうか。
そんな少女が、瞳に涙を浮かべて、まっすぐに信を見つめていた。
「やっぱり……! やっと……逢えた……」
「真冬……」
震える声で、信が少女の名前を呼ぶ。
詩音は青ざめた信を見上げ、そしてまた少女に目を向けた。
真冬と呼ばれた少女は、詩音などまったく眼中にないように、ただ強い視線を信に向けている。
「お前……どうして……」
「どうして? それはこっちの台詞よ! 突然、もう逢わないだなんて云って……、学校も、浜咲に行くって云ってたのに、全然違うとこ……。家に行っても、逢ってくれないし……電話だって……」
「……」
「いったい、どういうつもりなのよ!?」
まさに、烈火のような勢いだった。そのひたむきさは、彼女の信に対する想いの強さそのもののように思えて、詩音は信同様、青ざめていた。
けれど、信は答えない。真冬と目を合わせようともせず、ただ力無く立っていた。
その信の様子に、真冬は苛立たしげに唇を噛んだ。瞳にたまった涙をこぼさなかったのは、彼女のぎりぎりの意地だったのかも知れない。
「それが……あんたの償いなの? そんなことが……」
「もうよせ、真冬」
真冬から目をそらしたままで、信が呟いた。静かな一言だったが、その言葉が持つ冷たい響きに、詩音は打たれたような痛みを覚えた。彼がこんな風な話し方をするなんて。
真冬もまた言葉を失い、信の面を睨み続けた。握りしめた強さのあまり、拳が白くなっているのが、詩音の目に映った。
「……私、諦めないからね」
「……」
「こんなの……許さないんだから! 絶対、……絶対……」
ついにあふれそうになった涙を見せないためか、真冬は信と詩音に背を向けて、駆け出していった。
信は相変わらずうつむいたままで、詩音は走り去る真冬の背中を見送りつつ立っていた。
結局、最後まで真冬は詩音を見ようともしなかった。そのことが、自分をひどく場違いな場所に居合わせた気にさせて、詩音は悲しかった。
「……ごめんな、詩音ちゃん」
ふと声をかけられ、はっと詩音が振り向いたとき、信は小さく微笑んでいた。
その笑顔に、詩音は胸が引き裂かれる思いだった。
これまで、どれだけ彼の笑顔に救われてきたか知れない。けれど、今日のこんな笑顔は見たくなかった。そんな、自分を誤魔化すような笑顔は。
「行こっか」
「……」
「詩音ちゃん?」
「……」
うつむいてしまった詩音を見て、信はわずかにため息をついた。そしてまた、さっきと同じ笑顔を無理矢理浮かべた。
「気、悪くさせちゃったかな。……当然か。ごめん」
「……」
「今日はもう、帰るかい?」
黙ったまま、詩音は小さく頷いた。信も頷き返し、先に立って駅まで歩きだした。
それからの道のりは、二人とも無言だった。駅で切符を買い、改札を抜け、ホームに立つ。さっきまでより、ほんの少し距離を開けて。
やがて、電車が近づいてくると、信は荷物を差し出した。
「じゃあ……また、明日」
「……」
詩音は荷物を受け取らなかった。うつむく詩音の前に電車が止まり、ドアが開く。発車のベルが鳴り響いたとき、その音にかき消されそうな小さな声で、詩音は云った。
「送って……くださいませんか」
「え……?」
「家まで……送ってほしいんです。お願いします……」
我が耳を疑い、茫然とする信の返事を待たず、詩音は電車に乗り込んだ。閉まりそうになるドアの間に、慌てて信は体を滑り込ませた。
*
なんとなくそわそわして、周りをきょろきょろと見回している信を横目に見ながら、詩音はキッチンに入った。お湯を沸かす用意をしてから、紅茶を選び始める。
今日はどんな紅茶がいいだろう。こんな気分のときは……。
そこまで考えて、詩音は、ほうと大きくため息をついた。
こんなって……どんな?
自分でも信じられなかった。信に送ってほしいと頼んだだけでなく、家にまで招じ入れてしまうなんて。今日も父は仕事で不在だし、お手伝いの人も日曜は来ない。ふたりきりということだ。
高鳴る心臓を鎮めるために、詩音はハーブティを選んだ。
どうしても、あのまま別れてしまうのは嫌だった。けれど、人が多いところにいるのも煩わしかった。だからつい、こうして家に招いてしまった。
だけど、彼を招いて、そしてそれからどうしようというのだろう。
――あの真冬というひとのことを知りたい。
だけど、そんな権利が私にあるの?
考え事にふける内に、紅茶を蒸らしすぎてしまった。これでは百点満点の紅茶にはほど遠い。
詩音はまたため息をつくと、トレイにポットとカップを二つ乗せて、居間へ戻った。
「お待たせしました」
「……あ、ううん、全然」
物珍しそうに暖炉や調度類を眺めていた信は、慌ててソファに座り直した。バツの悪そうに苦笑いする彼に、いつもなら詩音も苦笑を返すところだが、今はどうしても、初めて逢った頃のように硬い顔になってしまう。
そんな詩音の表情を見て、やや途方に暮れた様子で、信はカップに手を伸ばした。だが、紅茶を一口すすると、たちまち顔いっぱいの笑顔になった。
「相変わらずうまいよなあ。やっぱ、詩音ちゃんの紅茶は格別だよ」
「……そんなことありません。今日は……失敗してしまいましたし……」
いつものような信の大袈裟な褒め言葉に、頬を染めることもなく、詩音は下を向いていた。素直になれない気持ちがあったのと、実際、今日は蒸らしすぎて渋みが出過ぎてしまっている。
初めて招待した紅茶が失敗作だなんて、なんてことだろう。やっぱり入れ直せばよかった。そんなことを考えている自分に狼狽し、詩音はますます下を向いてしまった。
しかし、信は詩音の言葉に目を丸くしたものの、やはり笑顔のままでもう一口飲んだ。
「そうかな? 俺にはすっごくおいしいけど。まあ、俺の舌なんて、当てにならないのはわかってるけどさ」
「そういう意味じゃ……」
「うん、わかってる。でもさ、詩音ちゃんが入れてくれた紅茶って、なんかこう、心がほっとするんだよ」
「え……」
詩音は思わず顔を上げた。微笑んで、まっすぐに見つめてくる信と目が合う。再び心臓が高鳴り、頬が紅潮してくるのがわかったが、それでも目をそらすことができなかった。
「味がいいのは云うまでもないけど、それだけじゃない、なんて云うのかな……。うまく云えないけど、気持ちがすごく落ち着くんだよ。だから俺は、詩音ちゃんの紅茶がすごく好きだな」
「稲穂さん……」
私にとっては、あなたの笑顔がそうです――、そう素直に云えたなら、どんなによかっただろうか。詩音にはまだその勇気はなかったが、信の言葉が、彼の心にほんの少し踏み込もうとする力を、詩音に与えてくれた。
詩音は信の瞳をじっと見つめたまま、口を開いた。
「あのひとのこと……教えてください」
「え……?」
「今日、会った……真冬さん、でしたか」
「詩音ちゃん……」
信はその言葉に戸惑い、表情を変えたが、詩音のひたむきな視線から目をそらすことはできなかった。そのまましばし沈黙の時間が流れる。やがて、信が深いため息をついた。
「彼女……藤村真冬は……」
「……」
「俺が……昔、つきあっていたひとだよ」
刺すような痛み、という言葉は比喩ではないことを、このとき詩音は、身を以て知った。
*
深くなっていく夜の闇を、詩音は窓からじっと見つめていた。
目の前の机には、一口も飲まないまま、すっかり冷めてしまった紅茶がある。信がほめてくれた心を暖める効果も、今の自分自身には効き目がないように思えた。
予想通りの答えだったけれど、それでも、――いや、それだからこそ、信の告白は詩音に衝撃を与えた。文字通り、石のように黙りこくってしまった詩音に、信はぽつりぽつりと昔語りをした。
藤村真冬は、信や詩音とは一歳年上だという。部活を契機に知り合い、中二の始め頃から付き合いだしたのだそうだ。
けれど、幸せな時間はあまり長くは続かなかった。彩花の事故が起こってしまったからだ。
智也の恋人を奪う事故を引き起こした自分を、信は許せなかった。そんな自分が、恋人と今まで通りの時間を過ごすなんて、できるはずがないと思った。
だから、信は真冬に一方的に別れを告げ、高校もわざと真冬の通う浜咲学園ではなく、澄空にした。償いを果たすまで、恋をするなんて許されない。そう思ったのだと。
信が話し終えても、詩音はやはり黙ってうつむいたままだった。長い時間が経って、信がそっと立ち上がったときも、顔を上げなかった。
「じゃあ……そろそろ帰るよ、俺」
「……」
信はドアのところまで歩き、そこで振り返った。悲しげに自分を見つめる信の顔を、努力して詩音は見まいとした。
「勝手な言い草だと思うかもしれないけど……」
「……」
「俺は……詩音ちゃんが、好きだよ」
「……」
「じゃあ、また明日」
静かにドアを閉めて、信は出ていった。
門が閉まる音がかすかに聞こえたとき、ようやく詩音は立ち上がり、玄関へ走った。けれど、もう外には信の姿は見えなかった。
のろのろと室内に戻り、紅茶のお代わりを入れて、詩音は自分の部屋へ入った。そして、せっかく入れた紅茶に口をつけないまま、窓の外をただ眺め続けていたのだった。
信の言葉が、詩音の胸で何度もよみがえった。
勝手? 勝手なのは私だ。彼の痛みを無理矢理引き出しておいて、何も云わずに帰らせてしまった。あれでは私が責めていると思われても仕方がない。
どうしてあんなに動揺してしまったのだろう。彼に昔、恋人がいたって何の不思議もないし、そのことを私に黙っていたのだって、別におかしいことじゃない。
それなのに――、詩音はもう何度目かのため息をついた。
家の前の道を、車が走っていく。窓越しに差し込むライトのまぶしさに目を細め、詩音は今更気づいたように、カーテンを閉めようと手を伸ばした。
そのとき、窓に映った自分の姿を見て、詩音は動きを止めた。
真冬の姿が、思い出されていた。
綺麗なひとだったと思う。火のような情熱が、いっそ凄絶な迫力を与えていた。そして何より、あの見事な黒髪……!
詩音は髪を指ですいてみた。北欧系のやや銀がかった薄茶色の髪。たとえいじめられる材料になったとしても、母譲りのこの髪が自分でも大好きだったし、誇りでもあった。
だけど、信は……? 彼は、あの黒髪を愛したのだろう。私のこの髪を、彼はどう思っているのだろうか。
気がつけば、詩音は涙を流していた。
こんなに苦しい気持ちをなんと呼べばいいのか。
たった一言で言い表せるその想いを、けれどまだ詩音は認めるのが怖かった。だから、千々に乱れる心を持て余したまま、ただ涙を流していた。
また明日。そう云ってくれた彼の言葉を、たったひとつの拠り所として。
*
月曜日の朝は誰にとっても気が重いものだが、今日の詩音にとっては格別だった。足を引きずるようにして、学校までの上り坂を歩いていく。
一人きりだった。あまりつきまとっては、と考えているのか、信も朝は詩音を待ってはいない。
だけど、今日だけはいてくれるのではないか。そんな自分勝手な期待をしている自分が詩音には腹立たしく、そして、やはり駅に彼の姿がないことを確認して落胆している自分が、心底情けなかった。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。昨晩から何度も重ねた繰り言に、詩音は最近ではすっかり癖のようになってしまったため息をついた。しかし、ちょうどそのタイミングで後ろから肩を叩かれ、危うく飛び上がりそうになってしまった。
「よ、おはよ」
「あ……」
我知らずこぼれる笑顔で、詩音は振り返る。だが、そこに立っていたのは、彼女が逢いたいひとではなかった。
「三上くん……、唯笑さん……」
「よ」
「おっはよー、詩音ちゃん」
幼馴染みから、晴れて恋人同士に昇格を果たした、三上智也と今坂唯笑。その二人が、今日も並んで登校していた。
これまでなら、そうした二人の姿に小さな痛みを感じていたはずだが、今の詩音はただ失望に顔を曇らせるだけだった。
「あれ? どうしたの、詩音ちゃん、元気ないよ」
詩音の変化に気づいた唯笑が、眉を寄せて、詩音の顔を覗き込んでくる。詩音は慌てて首を振り、顔を背けた。
「な、なんでもありません」
「そう? 具合悪いとかじゃないの? 大丈夫?」
「はい」
「うーん……」
「月曜の朝なんて、みんなユーウツなもんだろ。いつでも元気なのは唯笑ぐらいだよ」
どうしても詩音の態度が気になってしょうがない様子の唯笑の頭を、智也がぽんと叩いて引き留めた。唯笑はたちまちむくれて、智也の顔を軽く睨みつけた。
「なぁに、それ。唯笑だって色々悩み事もあるんだから」
「はいはい。どうせ今日のお弁当の中身は何かなあとか、そんな悩みだろ」
「ひっどーい」
逃げるように小走りに歩く智也の背を叩きながら、唯笑があとを追った。
詩音は二人の後ろ姿を眺めながら、ほっと軽く息をつく。さりげなく話をそらしてくれた智也の気遣いがありがたかった。
智也はいつも、こちらの気持ちに強引に踏み込んでこようとはしない。信ならきっと、唯笑と一緒になって大袈裟に心配してくれるだろう。
そこまで考えて、詩音はまた表情を暗くした。
何を比べているのだろう、私は。こんな浅ましさが、自分の中にあるなんて。
大きくかぶりを振って、詩音はそれ以上考えるのをやめようとした。そして、歩き出そうと顔を上げたとき、智也と唯笑が立ち止まって、心配そうに振り返っているのに気づいた。
「あ……」
詩音はバツが悪そうに、少し頬を赤らめた。けれど、二人はもう何も訊かず、ただ微笑んでいた。
「早く行こ、詩音ちゃん」
「は、はい」
足を速めて、詩音は二人の背に追いついた。
*
始業ベルぎりぎりに駆け込んできた信は、いつもと変わらない笑顔で、隣の席の詩音に挨拶をした。
「おはよ、詩音ちゃん」
「……おはようございます」
目をそらしたり、うつむいてしまったりしないようにしよう――、そう意識しすぎるあまり、詩音は思わずじっと信の顔を見つめてしまった。そのため、不思議そうに信に首を傾げられ、結局赤くなって目をそらしてしまった。
それからは、当たり前の一日が過ぎていった。しかし、詩音にとっては、いつになく長い一日となった。
はじめの頃と違い、信は詩音に必要以上に話しかけなくなっていた。詩音が静かに過ごす時間を邪魔しないよう、気を遣うだけの余裕が出てきたのだろう。だが、今日に限っては、その彼の気遣いが詩音を居心地悪くさせていた。
ようやく、最後の授業の終了を知らせるベルが鳴った。ホームルームが終わると、詩音は信が席を立つ前に、急いで声をかけた。
「……稲穂さん」
「ん? ああ、またあとでね」
いつも通り詩音が図書館に向かうのだと信じて疑わない信は、笑顔で詩音に軽く手を振って見せた。詩音はつい頷いてしまいそうになるのを必死で押しとどめて、言葉を紡ぎ出した。
「いえ、その……」
「?」
「今日は……もう、帰りませんか?」
「え? 図書館はいいの?」
「はい、今週は委員ではありませんから……」
「そっか。こんなに早く一緒に出られるなんて、ラッキーだな」
相変わらず屈託のない信の喜び方に、詩音のほうが照れてしまう。けれど、やはり詩音もそう云ってもらえると嬉しかった。
とにかく一刻も早く、昨日の態度について謝っておきたかったのだ。いつでも何もかも彼の優しさに甘えて、それでうやむやにしてしまうようでは、詩音は自分が許せなかった。
しかし、残念ながら、非常に間が悪かったようだ。一度図書館に行ってから、引き返せばよかった、と詩音は後悔した。
「あれ、今日はもう帰るの?」
二人で教室を出ようとしたとき、唯笑に声をかけられてしまったのだった。
振り向くと、智也と唯笑も帰るところだった。唯笑は本当に嬉しそうに満面の笑顔で、詩音に腕を絡めてきた。
「わぁい。じゃあさ、せっかくだから、久しぶりに四人で遊んで帰ろうよ」
「お、唯笑にしては名案だな」
「ひっどーい。じゃあ、智ちゃんだけ来なくていーよーだ」
二人にしてみれば、今朝の詩音の様子を心配して、元気づけようとしてくれたのかも知れない。そう考えたから、詩音は彼らには気づかれないように、そっと吐息を漏らした。
「ちぇっ、気が利かねぇなあ、二人とも」
信も冗談めかして答えているが、断る気はないようだった。
今でも彼は、私が彼と二人きりでいるより、唯笑さんたちと四人でいるほうが気が楽だと思っているのだろうか。
詩音はまたしてもそんなことを考えてしまう自分に舌打ちしつつ、教室を出た。
*
最初にそのひとに気づいたのは、唯笑だった。
「あれ? よその学校の子がいるよ」
昇降口を出て、校庭を横切って校門へ向かおうとしている途中だった。
その門のところに、明らかに澄空とは違う制服を着た少女が、立っていた。
唯笑の言葉でそちらを見やった詩音と信は、同時に、表情を凍り付かせた。
気位の高い猫を連想させる、その美貌。豊かで艶やかなその黒髪。そして、その制服。
「あれ、浜咲のだよね。誰か友達待ってるのかな?」
まさか彼女の待っている人物が、今、自分の隣にいる男だとは、唯笑には想像もつかない。
――しかし、彼女、藤村真冬が待っていたのは、信だけではなかった。
歩みを止めるわけにもいかず、校門へ近づいていく四人に、真冬も気づいた。信の顔を見て、ニッ、と唇の端だけで笑う。そうすると、ますます猫を思わせる表情になった。
真冬が信へ送る視線に、智也と唯笑も気がついた。硬い表情の信と、謎の美少女の顔を唯笑が交互に見る。
「ほえ? もしかして、信君のお友達?」
「……」
答えず、信は少し足を速めて、真冬の前に立った。詩音はひどい胸騒ぎを感じながら、その背中を見守った。
「……何しに来た」
「ご挨拶ね」
真冬は芝居がかった仕草で肩をすくめて見せた。そして、ひどく挑戦的な眼差しを、まっすぐ信に向けた。
「でも、お生憎様。今日はあんたに会いに来たんじゃないの」
「なんだって?」
「私が用があるのは、そちらの二人よ」
真冬が差したのは、突然生じた険悪な雰囲気に、茫然と彼女らを見守っていた智也と唯笑だった。当の二人が、そしてそれ以上に信と詩音が驚いて目を瞠る。
「お前……何を?」
「はじめまして。藤村真冬です。あなたたちが、三上智也君と今坂唯笑さんね?」
信の狼狽を完璧に無視して、真冬は智也たちの前に立った。
唯笑が少し怯えたように、智也の袖を掴む。智也はそっとその手を包み、真冬の挑むような視線を見つめ返した。
「そうだけど。君は信の友達?」
「恋人よ」
「なっ……!」
目をむいた信が、思わず真冬の肩を掴んだ。真冬は信を振り返りもせず、うるさそうにその腕を払った。
詩音は青ざめて、目を背けるばかりだった。
「うそっ。信君が好きなのは、だって……」
思わず言い募ろうとする唯笑を、真冬がキッと睨む。唯笑は口を閉ざして、智也の袖を握る力を強めた。
真冬は智也に視線を戻し、挑発的な口調で続けた。
「あなたは信の、親友、なんですってね」
「……そのつもりだよ」
「ふうん」
肩に掛かる長い黒髪を、真冬がうっとうしげにかき上げる。一拍の間。そして。
「信はずっと、あなたをだましているのに?」
「……!」
「……なんだって……?」
信は青ざめて、棒立ちになっていた。真冬を止めることもできない。
詩音もまた、体が震えて、声が出なかった。
やめて。何を云う気なの。もうやめて。
「彩花さん、だったわよね。あなたの昔の恋人」
「――!」
「彼女は、信をかばって、事故に遭ったのよ」
詩音は目の前がすっと暗くなっていくのを感じた。足に力が入らなくて、倒れそうになる。
信は目を閉じ、唇を噛んで、天を仰いでいた。
そして、智也と唯笑は――、真冬の言葉の意味が、よくわからなかった。わかりたく、なかった。
「な……ん、だっ……て?」
「……智ちゃん……」
「信のせいで、あなたの恋人は死んだの」
残酷な言葉を、何のためらいもなく口にする真冬。その口に浮かぶ笑みは、魔性のもののようにさえ、詩音には思えた。
「その償いがしたくて、信はあなたに近づいたの。でも、その償いが新しい彼女との仲を取り持つことだなんて……笑っちゃうわよね」
信が動くのが一瞬遅ければ、詩音が真冬の頬を張っていただろう。
信は真冬の胸ぐらを掴み、右手を振り上げた。けれど。
「信……」
親友の、小さな呟き。そのたった一言が、信の動きを止めた。
ゆっくり、ゆっくり、信が振り向く。怯えた子犬のように、細かく震えながら。
智也は、うつむいていた。そのために、その表情は信にはわからなかった。
「信……どうして……」
そこから先を聞く勇気が、信にはなかった。彼は真冬を放すと、皆に背を向けて走り去った。
「稲穂さん……!」
とっさに追いかけようとしたとき、詩音は気づいた。燃えるような、激しい視線に。
真冬が、まるでその視線で射殺そうとするように、詩音を睨みつけていた。
このとき、初めて真冬と目が合ったことに、詩音は気づいた。昨日も、そして今日も、真冬は詩音などまるでそこにいないかのように振る舞い続けていたのだ。
だがそれも一瞬のことで、真冬は冷笑を浮かべると、信が去ったのとは反対の方向に歩き出した。
智也はうつむいたまま拳を震わせ、唯笑は涙を瞳に浮かべて、智也に寄り添っている。
詩音は逡巡の末、走り出した。――真冬を追って。
*
「待って……待ってください」
詩音の呼びかけを、はじめ、真冬は無視した。しかし、腕を掴まれるとようやく足を止め、振り返った。乱暴に詩音の手を振り払い、詩音を睨む。先ほど一瞬見せた切るような視線ではなく、氷のように冷ややかな瞳で。
詩音はだが、その迫力に気圧されはしなかった。彼女もまた、生まれてこの方、ほとんど抱いたことのないほどの怒りに突き動かされていたからだ。
「どうして……!」
「……」
「どうして……あんなことを云ったんですか!? 稲穂さんが、いったい、これまで、どんな気持ちで……」
慣れない激しい感情に、詩音は言葉を詰まらせた。涙がにじんできてしまう。
しかしそれでも、真冬は全く表情を変えなかった。氷の視線で詩音をしばし見つめ、そして一言、吐き捨てるように、云った。
「あなたは……彼の何なの?」
「え……」
その言葉に、詩音の激情は水をかけられたように冷えていった。
狼狽し、視線をさまよわせる詩音。そんな彼女に、真冬はこれ以上話す価値もない、というように冷笑して見せた。
「私は信を愛してる。彼を取り戻すためなら、何だってするわ」
苛烈な宣告を残し、真冬は詩音に背を向けて歩き去った。
詩音はもう追うことはできなかった。ただ真冬の言葉が、頭の中でずっと繰り返されていた。
アナタハカレノナンナノ?
アナタハカレノナンナノ?
アナタハカレノ……
耐えられず、詩音は膝から崩れ落ちた。真冬の言葉に心を抉られ、自分が涙を流していることにさえ、気づいていなかった。
あとがき
完結編・前編、です。なんか思いの外、長くなってしまいました。
「Bridge」がすでに放送されている以上、今更……という気もしなくもないのですが、せっかく考えたし、そもそもSSはifの世界ですからね……と、勝手に解釈してみたりして(^^ゞ。
急遽シリーズタイトルにした「Can You Keep A Secret ?」は、詩音シナリオを詩音視点で語るSSにつけようと思っていたものでした。愛する人を信じたい、だけど信じるのが怖い、という心情を歌った(と、私は思ってます)この歌は、詩音にぴったりだと思うので。自分の気持ちに気づきながら、それを認めるのが怖い、という詩音の心の動きを表現できるといいなあと考えています。
しかし、信も詩音も、誰だ、こいつら?って感じになっているような……(^^ゞ。
ご感想など、いただければ幸いですm(__)m。