ねこ猫ヒカル
第3部
【3話 触れてはいけない】
アキラは秋に入ってさらに手合いやらイベント出演やら仕事が増えて、忙しい毎日を送っていた。学校はほとんど行っていない状態だ。なるべくヒカルと一緒にいたいから、泊まりの仕事はなるべく避けてはいるものの、一週間で一度も休みがないこともある。
自分がいない間にヒカルはいろいろなことを覚えていっている。母と一緒に近所の商店街に買い物に行くのは以前からしていたが、最近は父の散歩に一緒についていったりしているらしい。父は徒歩で十分程の所にある小さな川の土手でのんびり散歩をしたりすることがあった。特にこの紅葉の季節には、土手のイチョウ並木が美しいこともあって、時間を見つけては眺めに行くのだ。
「これ、オレが拾ったの!」
ヒカルはついていっては、イチョウ並木で銀杏を拾って帰ってきて、母に夕飯のおかずとして料理してもらった。そして、家族とは違う遅めの時間に夕飯を食べるアキラの横で、ヒカルは自慢げに銀杏を拾った時の様子などを詳しく話してくれるのだった。
『その場に一緒にボクがいてあげられたら・・もっと楽しいだろうに。ボクも進藤も。』
アキラは罪悪感と共に、ヒカルと時間を過ごせる父や母をうらやましく思った。
忙しさのせいもあって、二人の仲は停滞気味だった。お互いに大好きだという気持ちは変わらないのだが、それを表現する術がマンネリ化している。抱きしめるのも手を繋ぐのも、日常的になってしまい、以前ほどドキドキすることもない。変わりに長年連れ添った老夫婦みたいに満たされた気持ちが漂っている。それはそれで心地いいが、それではダメだとアキラも十分わかっていた。
『ドキドキしないといえば嘘になる。本当はいつだって鼓動は高鳴っている。でも・・一緒にいて空気のように自然だという風に思いこんで、ボクは自分を誤魔化そうとしているのかもしれない・・。』
アキラの中のヒカルに対する思いは、膨れ上がるばかりで果てを知らない。ヒカルのいろんな表情や行動に「やっぱりすごく好きだ。」と毎日再認するものの、その「好き」という気持ちに恐れを感じるのだ。アキラの「好き」とヒカルの「好き」が非常に近い性質でありながら、ほんのわずかなずれをアキラはいつも感じている。そして、その小さなひずみがアキラを苦しめているのだ。えいっと飛んでしまえばなんでもないのかもしれない裂け目の中を覗くと、どこまで行っても底がないように真っ暗で引きずり込まれそうになる。
その闇の名は「欲望」。ヒカルをもっと知りたいというアキラの気持ちが思いもかけない行動に走らせる。自分でも制御できない衝動を、ヒカルが受け入れてくれるとは思えない。ずっと一緒にいたいと望むのに、ではずっとその欲望を隠し通せるのかと考えれば、それは無理だと感じる。そばにいて欲しいし、いつだって抱きしめたい。けれど、安心しきったように身を任せてくるヒカルに、スリスリと甘えるように頬をすり寄せられる度、アキラの中で愛しい気持ちが風船のように膨らんで身体の内側からぐいぐいと理性を押しつぶされる。ヒカルの信頼を裏切るような行為をしてしまいそうになる自分を抑えるのに毎回必死なのだ。
しかし、その必死な自分を認めたくない。認めればどっと疲れが押し寄せてきて、ヒカルをわざと遠ざけてしまいそうだった。
『恋は苦しいというけれど、こんなに苦しいだなんて・・。そこにある触れたいものに触れられないのがこんなに辛いとは・・。いっそ触れてしまえばいいのか?ボクの気持ちを・・この激しい咆吼をあげる愛情を、進藤に押しつけてしまえばいいのか?でも・・それでもし、進藤がボクを嫌いになったりしたら・・・。そう考えると今のままでいいと思ってしまう。堂々巡りだ。何も進まない。』
7月の末にスヨン達がやってきて、抱きしめることもできない日々が続き、その反動で思わずヒカルのシャツの間に手を滑り込ませた時のことを3か月たった今でも良く覚えている。
『絹のようなさらりとした肌に、手を滑らせた時の心地よさ。そしてあの時のヒカルの表情・・・恥ずかしそうでありながら、身を任せる従順な進藤・・。今でも思い出すだけで身が焼かれるような気持ちになる。夢のようでとても幸せだったのに、苦しい気持ち・・。』
その初めて感じる理不尽な苦しみをアキラは逃がす方法を知る術もなかった。
『進藤を想う苦しさを、進藤の身体に触れることで解消しようとしているのかもしれない。直接肌を触ることで安心を得ようとしているんだ。でも・・それはボクのわがままだ。進藤も同じように望んではいないはず。』
何度もキスなんかをヒカルに拒否されたこともあって、アキラは慎重になっていた。また性急に事を進めて、ようやく軽く抱きしめたりキスしたりに抵抗のなくなってきたヒカルが、一気に拒否反応を示すようになってしまわないか、心配なのだ。
徐々に徐々に近づいていかなければと自分を制する一方で、アキラはヒカルと一緒にいるだけでその細い腰に手を回したくなる。それをしないためにも、仕事が忙しくて時間がとれないという言い訳はある意味アキラを楽にした。
木枯らしが木々の葉を舞い上げるように、アキラの心もまた、恋の突風に翻弄されるのだった。
一方、ヒカルの方は、そんなアキラの複雑な思いなど知るよしもなく、ベタベタしようとしてもすぐに何かと理由をつけてすり抜けていくアキラを寂しく感じていた。
『そりゃあ、オレ、しばらく塔矢のこと、『近寄んないで!』とか、キスとかぎゅっとかされるたびに突き飛ばしたり、蹴り入れたりしちゃったけどさ。はずかしくってやっちゃったんだもん。塔矢はなんでぎゅっとさせてくんないのかな。』
せかせかと仕事に精を出すアキラに、少しでも自分の方を向いて欲しくて、ヒカルは家にいる間はじいっとアキラを見つめている。でもアキラは気付いているはずなのに、目を合わせない。
さすがのヒカルも不満がたまっていた。
「塔矢ぁ。」
「なに?」
返事はしても気はこっちに向いていないとヒカルは感じる。棋譜の整理をするアキラの首に後ろから腕を回して背に乗っかかる。
「塔矢ってば!」
「重いよ、進藤。すぐ終わるから待ってて。」
そういうアキラの背中にのっかったまま、ヒカルは体重をかけたり緩めたりして、ゆらゆらと前後に揺らす。アキラは慣れたようにヒカルがしたいようにさせている。
ヒカルはアキラの気をひこうと、甘えた声で聞いてみる。
「塔矢ぁ、オレのこと好き?」
「何言ってるんだ。好きに決まってるだろ。・・うわっ!」
望んだ答えでも素っ気ない声で言われれば、ムッとする。ヒカルはアキラの顔を強引に力一杯ぐいっと自分の方に向かせる。アキラの頭はおかしな具合に曲げられている。
「・・痛いんだけど・・。」
「もう1回言って!オレの目を見て言って!」
ヒカルはギンギンした目でアキラの顔を覗き込む。アキラはなんとか首を取り返して、身体ごとヒカルの方を向く。ヒカルはアキラがこっちを向いた途端、至近距離で顔を近づけてくる。その顔は真剣だ。
アキラは内心、
『勘弁してくれ・・。ボクがこんなに自分を抑えているのに・・。』
とため息をつく。しかし、そんな目のうろうろするアキラを見て、ヒカルは、
「また塔矢、別のこと考えてる!」
とへそを曲げる。
「塔矢はオレのこと・・もう好きじゃないんだ!」
「どうしてそんな事言うんだ。好きだよ。進藤。好きじゃないなんてなんで思うんだ。ボクはわからない。」
「わかんないのはこっちの方だよ!塔矢、最近、全然オレのことかまってくんないじゃん!チューもぎゅっもあんまりしてくんないし、してもなんだか上の空だし。」
「そんなことない。」
「そんなことある!じゃあさ、ギューってして、チューしよ?」
「えっ。」
「塔矢がしたいっていうなら、ベロのチューもしてもいいから!」
ヒカルは本当は激しいキスは苦手でいやがった。いまだにうまく息ができないというのもあるし、なんだか不思議な感覚が襲ってきて、くらくらするのが自分じゃなくなるようで敬遠しているのだ。そんなキスをヒカルが勇気を出して、『してもいい』と言いながらも、恥ずかしそうに頬を赤らめる。アキラも合わせて赤くなる。
『そんなキスも随分していないな。軽いキスばかりだし・・。本当はしたいけど・・でも・・激しいキスなんかしたら・・ボクの我慢の限界が・・。なんとかごまかさなくちゃ・・。』
アキラは本当はしたいのに、物欲しげに流れてくる生唾をごくりと飲んで、ドキドキする気持ちに蓋をする。
そして、味わうこともなく手早くキュッと抱きしめて、チュッと軽く唇にキスをする。それでも普段禁欲的に過ごそうとしているアキラにとっては、ヒカルのふんわりとしたパンケーキのような甘い唇に少し触れただけで目眩がする。
「早いーー!もっとゆっくりして!」
ヒカルが不満げにしっぽをばたばた畳に打ちつける。
「もう遅いから寝ないと・・。」
アキラはそう言って布団をひこうと提案して気をそらせようとする。そんなアキラにヒカルはイライラした。
「もう!塔矢のバカ!」
ヒカルは怒って、布団をひくアキラを手伝おうとしない。アキラは一人で二人分の布団を押入から出して、きちんと敷いた。
「おやすみ。」
ぱちんと電気を消されても、ヒカルの心の中のモヤモヤはますます大きくなるばかりだ。
『塔矢がギュッとしたくなるように、もっともっとなんか考えなきゃ。こんなんじゃ、オレがお母さんの真似しておよめさんになる方法を探している間に、塔矢がオレのこと・・本当に嫌いになっちゃうかもしんない。・・そんなの考えたくないけど。』
ヒカルはアキラの態度を誤解したまま、いい方法を考えた。考えているとすぐに眠くなって、怒りでふんふん荒くなっていた息がすやすやと安らかな寝息に変わっていくのだった。
そんな二人の様子を屋根の瓦の上で聞いている者がいた。その影は二人が寝静まったのを確認すると、すっと幻のように消え、あとは月の明かりが白く照らしているだけだった。