ねこ猫ヒカル
第3部

【6話 朝のひととき】

  カーン
 庭で獅子おどしの音が、朝もやの静けさの中を渡っていた。部屋では久しぶりにアキラと父が朝の対局をしている。
「アキラ。お前、鼻血はもういいのか?」
 父が碁盤から目を離さずにきいた。
「ええ。昨晩はお騒がせしました。」
 アキラは冷静な口調で言った。
「うむ。大丈夫ならいいんだ。お前が鼻血を出すなんて滅多にないから少し心配したぞ。」
「すみません。ところでお父さん。」
 会話しながら、アキラはピシッと父の薄いところに石を進めてきた。父は少し目を細める。
「お父さんは初恋はいつですか?」
「は・・は・・、はつ?!」
 父は耳を疑った。息子からでる可能性の最も低そうなジャンルの言葉がでてきたからである。そこで急に思いだした。以前緒方がアキラに好きな子がいるという話を聞いた時のことを。あれからアキラにそんな素振りがなかったのですっかり忘れていたが、来年の3月、あと4か月ちょっとでアキラも海王中学を卒業である。同じ学校に通うと推測されるその彼女のことが気にかかるのも無理はないだろう。・・と父の中で勝手な想像が瞬時にして駆けめぐった。
「お父さんの初恋ですよ。まさか初恋がなかったなんて誤魔化されませんよ。」
 来るべき時が来たのだ、と父は悟った。そして覚悟を決めた。これはある意味親としての務め。ちゃんと受けとめてやらねばならない。
「う、うむ。そうだな。初恋は・・・お前と同じ十五の頃だった・・かな・・。」
「相手は?」
「相手は・・うむ・・同級生で・・。」
 父は慣れない創作の嘘を繰り出すのに苦労していた。実際、父は根っからの碁馬鹿で、そんな年に初恋などしたことがない。本当は妻明子が初恋なのだ。しかし、三十歳を過ぎてようやく恋をしたとあっては、なんだか男として恥ずかしい気がするし、父の威厳ももろくも崩れ去りそうな気がした。
 しどろもどろする父にアキラは次々にパンチを繰り出してきた。
「その同級生とはおつきあいしたんですか?やっぱり好きだったら触れたいと思うのは当たり前ですか?それとも触れないのが男の優しさですか?お父さんはどうでした?」
 強烈なパンチの数々に父はグラングランになった。なんと言っていいのかわからない。しかし、ここは父として踏んばらねばならない。何か気の利いたことを言って、アキラの悩める青春の道の道しるべになってやらねばならない。
 父は考えに考えて、
「ア、アキラ・・、お前はまだ十五歳だ・・。学生としての本分をだな・・。今だ親に養ってもらっている年齢なのだから・・。」
 考えた割にはありきたりな親の発言である。
「ボクはもう学生と言ってもプロの棋士です。生活力ならありますが。・・いや、そういうことではなくて。」
「そうだった・・。お前はもうプロの棋士だった・・。」
「だから、そういうことをききたいのではなく、お父さんは好きな相手にどこまで我慢して、どこまで触れたらいいのかという・・。」
「いや、ほらあれだ。お前はまだ十五だし、触れるとか触れないとかそういう問題ではなくてだな・・。」
「じゃあ、お父さんは初恋の相手には一切触れなかったのですか?」
 父は眉間にこれ以上ないほどしわを寄せた。初恋の相手は妻だから、もちろん手を出したし、子供まで作った。しかし、それはここで言うべきではない。頭の中をぐるぐるどう嘘をついたらいいのかが巡る。そして、1分くらい沈黙したであろうか。父にはもっと長い時間に感じたが、考え抜いて大きくこくりと頷いた。
「うむ。初恋の相手には、私は断じて触れていない!初恋とはそういう純粋な物だ!」
と、宣言した。
「ひっどーーーーい!!」
 その時がらっと襖が開いた。
「お母さん!」
 襖の向こうには怒りに目のつり上がった母明子と、なぜかヒカルがいた。母はドスドスと踏み出す足にも念をこめている。
「行洋さん!」
 母が父を名前で呼ぶ時は相当怒っている時だ。
「あなた、初恋の相手には断じて触れていないですって?!よくもまぁそんなことが言えるわね。それとも何?初恋が私だっていうのは嘘だったの!?私はずっと騙されていたわけ?」
「い、いや、明子。冷静になれ。ア、アキラの前だぞ。」
「前も何もあるもんですか。私たち夫婦の危機に息子の前も後ろも関係ないでしょう!?」
 母は海から上がってきた巨大怪獣のように暴れた。父はそれをなだめるのに必死だ。そんな二人をアキラはふうとため息をついて眺め、席を立った。
「こうなってしまうと、どうしようもないな。お父さん。対局は打ち掛けにして、明日続きを打ちましょう。進藤、行くよ。」
「え、お父さんとお母さん、なんだか楽しそうだよ。ほっとくの?」
 ヒカルは普段楚々とした完璧お母さんが暴れているのと、それをいつも冷静沈着で山のように動かないお父さんがおろおろしているのが面白くてもっと見ていたかったが、アキラに手を引っぱられる。
「いいから。行こう。」
 二人は手を繋いで部屋から出た。とりあえず食事の用意をしてあるであろう食堂に向かう。
「進藤。お父さんとお母さんはまだ時間がかかるかもしれないから、二人で先にご飯食べてしまおうか。」
「うん。いいけど・・。」
 アキラは繋いでいたヒカルの手をパッと離す。
『結局、お父さんには何も参考になるようなことを聞けなかったな・・。かと言ってこんなこと誰に聞けるわけでもないし・・。』
 そのままアキラはぼんやり考えながらお茶を入れようと茶筒をあけた。
 そんな様子のアキラを見て、ヒカルはなんだか、寂しい気持ちがこみ上げてきた。今繋いでいた手を見る。もうアキラから伝わった体温はなくなっている。
「・・・。」
 ヒカルはなんだかせつなくなった。お茶を入れるアキラの背中にそっと近づいて、腕にしがみつく。
「うわぁっと。し、進藤?!あぶないだろ?」
 急須からちょうど手を離したところだったから良かったものの、お湯を注いでいる時だったら大変なことになる。アキラは、注意をうながしながら、ヒカルの耳がしゅんと下がっているのに気付いて、言葉を優しくした。
「どうしたんだ?」
「塔矢ぁ・・・。」
「ん?」
「あのさぁ・・オレさぁ・・できればずっと手を繋いでいたいの・・。」
「え?」
「手繋いでご飯食べよ。」
「へ?」
「いつも塔矢がお父さんやお母さんの前ではべたべたしちゃいけませんって言うから、我慢してたけど、今はお父さんやお母さんがいないからいいでしょ?」
 ヒカルは上目遣いでうるうるとアキラを見上げた。だだをこねている子供のようでもあるけれど、甘えているような視線はアキラの心を直撃する。
 「ダメ」と「いいよ」のどっちの台詞も同時に口からでようとして、アキラはポッとしたり背中にイヤな汗をかいたり、なんだかわからない反応にあたふたする。
 周りをきょろきょろ見渡したり、ヒカルの顔をじっと見ては、
「う。うう・・。」
と声でない声で唸り、相当葛藤してからようやく、自制心より恋心が勝った。
「い、い、いいよ。」
「ほんと?!」
 ヒカルはこれ以上ないほどの満面笑みで笑った。周りに花がぱぁっと散ったように見えた。
「やったー!じゃあ、ご飯食べよ!」
 ヒカルは急いでお茶碗にご飯をよそった。そして席について、隣のアキラの手をギュッと握った。
「いただきまーす。」
 ヒカルはニコニコしながら箸を持った。アキラは箸を持とうとして動きが止まった。アキラの右手はヒカルと繋がっている。右利きのアキラだったがしょうがなく左で箸を持とうとした。しかし持てはしても、食べるのは無理だ。
 少しだけでも手を離してもらおうと、ヒカルの方を見て、
「し、進藤・・手・・。」
と言ってみる。しかし、くるりとこっちを向いたヒカルに
「おいしいね!手繋いで食べるともっともっとおいしいね!」
と力一杯言われて、アキラはぐっと押し黙った。
『進藤がこんなに喜ぶんだったら、まあいいか。』
 アキラはそう思って、もう何も言わずに左手の筋がつりそうになりながら必死にご飯を食べた。とても食べづらかったが、確かにいつもよりおいしい気がした。
『幸せの味がする。』
 二人はほっこりとした気持ちで朝ご飯を食べるのだった。

             
      

ネコTOPへ