催眠再考察

Ⅰ.催眠の理想と現実

ギャップ

 催眠について一般にあるイメージは今でも昔ながらの神秘的・魔術的なものです。そんな催眠がテレビで放映される時、ショー的な催眠は魔術的側面がより強調されます。また「科学的に解明して行きます」と学術的に放映されている場合でもやはり催眠現象の神秘的で不思議な場面はテレビ的に欠かせないものでしょう。

 テレビは視聴者をしらけさせないようにと典型的な部分を切り取って見せます。またその中に登場する催眠誘導者は被験者や観客の注意を引きつけ、その気にさせねばならないわけです。そのためどうしてもカリスマ的指導者やマジシャンに似たふうな態度となりがちとなってしまいます。その上に暗示言葉という通常の言葉づかいと違う一風変わった話し方が重なります。それらによって特殊性イメージはますます増幅されていくのである。

 この点は一般向けの催眠関連の著作物においても似たようなものです。今でも典型的な事例を取り上げて魔術的効果を強調したものが催眠本が数多くあります。でもそのような典型的な体験は数少ないのが実情なのです。一方、学術的な著作物の方では理論構成を重視して概念化して堅苦しくなっています。それらを読んでいると読者の側も意識的思考の働きばかりが強くなってくるわけです。学術的な本には例えば受動的注意集中とか変性意識などという専門用語があります。それを学ぶとその通りにならねば催眠状態ではないとなってしまうのです。そこには、我を忘れた状態でこそ深まることのできるリラクゼーションのかけらもなくなってしまうのです。

 このような偏りのある情報傾向から、例えば自己催眠の本を手にした読者は、苦しい立場に立たされます。例えば自己催眠の本を読んでみて「これは良さそうだ、是非、潜在能力開発に挑戦しよう!」とその自己催眠(自律訓練法等)の本に書いてある事を試みるとします。でも誰もがいつも典型的な体験を出来るわけがないのです。多くの人がほとんどその通りになれずに、がっかりして終わります。また学術的な書物を読んで試みる場合に素直に読んでいるといつの間にか、その細かく書かれてある技法、理論に適合すること自体が目標となってしまいます。そこが気になって意識的努力ばかりが働くようになります。これでは暗示やリラックスの方は深まりようがありませんね。

 どちらにしても行き着くところは失望感と無力感で、能力開発をして自信をつけるつもりがその逆に「これができない自分はダメなんだ」などと自己否定感を強化さえしてしまうのです。このような事になってしまうのは私のような思考タイプの至りがちな所かも知れません。でも多くの人が似たような感じで、催眠術の本は「本棚の肥やし」となっている場合が多いのではないでしょうか。催眠に興味を持った人の中でいったいどれくらいの割合の人が催眠をうまく活用できているのか疑わしのです。

クライアント

 ところで私たちは自分に対する無力感から現実でかなえられない夢を託して常にヒーロー、ヒロインに憧れ、カリスマ的リーダーを求めてしまいます。できれば自分もヒーローやカリスマになりたいし、またそのような人に出会って導かれたり、認められて自分に自信を得たい、と、どこか求めてしまいます。これは考えてみると、困ったときの神頼み的なものといえなくもありません。同様に催眠術に魔術的な治療効果を期待するということは、甘いところがあると言われても仕方ないでしょう。

 でもそれは、せっぱ詰まった気持ちや、自分自身ではどうしようもない心の苦しさからの期待なのです。また劣等感をなんとか克服したいと願った中で、その人が一つ希望の光を見たという事でもあるのです。カリスマ的な催眠誘導者や心理療法家に自分を良くしてもらいたい、自分の潜在能力や可能性を開発してもらいたいと思うのは、やはり自分の力ではどうしようもないとの無力感から、自分への諦めと他の大いなるものへの期待なのです。本当はだれでも、できれば自分で治したいし自分で可能性を伸ばしたいのです。

 この願いは強く大切にされるべきで、ここから始まる治癒への旅や、自分探しの物語は、ぜひ最後には、今までの情けない自分と同様の無力感や自己否定感の上塗りで終わるということがあってはなりません。自我の無力や孤独感を受け止め乗り越えて、本当の意味での大いなるものと繋がり、癒しや安らぎや自己信頼を得る、というハッピーエンドでなくてはなりません。

治療者

 様々な世界のトップにいる、期待や憧れやらを一身に背負ったカリスマ的リーダーやヒーロー、ヒロインがその重圧に耐えかねながらも等身大の自分に戻る事もできず、そのギャップに苦しみ最後には悲劇的な結末を迎えるという話があります。同様に全ての治療者も始まりはただ純粋に人の役に立ちたい、との思いから催眠療法を始めたに違いありません。にもかかわらずクライエントの期待をカリスマとなって過大に引き受けた為に自分を偽ったり、無理して役者のように演じたり、ずっと自分の引き上げを続けねばならなくなって最終的にはその期待に応えきれなくなります。

 奇跡的な治癒があることを約束しながら、そうならなかった場合は、その責任をクライエントのせいにするようになってしまったり、また時には霊感商法と疑われかねないような所に行き着いてしまう治療者もいるようです。

 この傾向は催眠療法界に限らず、心理臨床界全体においても同様の事があるものとして注意が必要です。一般でのカウンセラーやサイコセラピストに対する需要と期待の高まりに、心理臨床にたずさわる人も飛躍的に増え続けているのですが、その実体はマニュアル化されたところや知的に理論を学んだだけで、心理臨床を行っている治療者が増えたという段階でもあって、まだまだ心の訓練の出来ている中身のある心理臨床家は数少ないといえそうだからです。

 マニュアルの枠組みや理論的な側面からクライエントに接することは先に述べたカリスマを演じる治療者と同様に、自分の本心とズレたところで、自分を偽ってクライエントに接することになる危険があって、心を扱う心理臨床の大切な基本であったはずの共感や心のふれあいも言葉の上だけになりかねません。

 心あるカウンセラーなら例えばそのクライエントに強い支えが必要な場合にはしっかりとクライアントを支えることがあるにしても、それだからといって自我肥大になる事なく、最後は欠点や弱点もある等身大の人間としてクライエントに接して行けるはずです。そうでないとクライエントは、そのままずっとクライエントの枠にとどまり続ける事となります。そしてクライエント自身として「個」を生きるという意味での自立ができないことになってしまいます。

プラス思考の功罪

 心理療法の実際場面ではクライエントの援助を行う際に、時に今現在のクライエントの自我を強く保つ方向で援助するか、それとも今の自我をいったん弛めてもらって新しいものを取り入れた自我となること(成熟してもらう)で強くなってもらう方向に援助するか、二方向の選択にせまられます。よく催眠で用いる暗示療法やプラス思考などはこのとにかく今現在の自我を強くする方向の心理技法といえるでしょう。

 例えば、スポーツ選手が大きな大会に出場していてそのプレッシャーに圧倒され怖じ気づいている時、そんな直前に自我をいったん緩めるような感じに内省するわけにはいきません。「どうして私はこんなに怯えているのだろう、もしかしたら本当は、このスポーツを嫌いなのかも知れない・・・それに一番になったとして何になるのか・・・」等とふり返ったり掘り下げたりしている暇はありません。このような時には、信頼しているコーチから強く励しの声をかけられたり、精一杯やればよい!と言い聞かせたり、強く成功イメージを思い浮かべたりする事で心身一如となりファイトが湧いてきます。

 催眠療法における暗示療法やプラス思考はこの例えの強力版として位置づけられるのです。

 ところで心理面接の場で、今の自我をいったん弛めてもらって・・・クライエントに成長してもらおう、などとカウンセラーが待ちかまえていても、よほど心理療法に詳しいクライエントか、自己探求にむいているタイプの人か、または、力量のある心理療法家に共感されて支えられ、共に歩んでもらうのでなければ、ユング心理学でいう、内的な「死と再生の儀式」などに匹敵するような心の大仕事(自己実現の道)を、それも長期間に渡ってやろうとは、思わないのが当然です。

 クライエントの大半は自分を成長させよう自己実現の道を探求しようなどとは露にも思わず、とにかく一刻でも早くこの苦しみから抜け出したい。と藁にもすがる思いで心理療法家のところを不安ながらも勇気を出して訪ねているのです。

 現在のところ、一般的な心理療法に対する理解度は、思い悩んだクライエントが心理療法家を訪ねて誰にも言えないような話を聞いてもらい、それに対し専門家の立場から良いアドバイスや指導を受けたり催眠療法をやってもらう、治してもらう(医学・教育モデル的)という認識が大半なのです。

 この一般的な認識と自我を強くする方向での治療法やプラス思考、催眠療法がかみ合ったところで一般的な民間催眠療法が行われているのです。クライエントが支えを期待するのは当然ですが、それをカリスマ的に指導する側の治療者には、それまでに強い信念を持って物事を成し遂げ成功してきたという経験があって、それをクライエントに教え、指示する、という治療が行われて来たといえるでしょう。

 このプラス思考を信じる事や成功イメージを繰り返し暗示すること、その強いカリスマ的な人物に支えられる事、またその人を理想として頑張り抜く事で、エネルギーがより高まり、それで物事を乗り切ったり成し遂げたりできた人がいるのは確かです。

 でもこれは「なせばなる」とか「夢は必ず実現する」などという、もう少々時代遅れに近いような「思いこみ」と言えるのではないでしょうか。強く思いこみ、感情移入して集中すること、成りきること、それ自体はとても大切な能力ですが、これが一面的になると、どうしても他のものを否定しなければならなくなります。

 この催眠再考察のページのはじめに述べましたが、これが絶対というような一面的な考えや価値観は必ず対立を生み出し差別を生み出してしまうものです。このことは対他人にだけでなく本人自身の内に生じて、心や身体との解離や葛藤やありのままの自分への否定を生んでしまいます。

 以前に催眠セミナーの中で、内なる自己像を見るという、セラピー的なメージ法を行った際に、マーフィーの成功哲学を信奉するある中年の男性は、心の地下室に大粒の涙を浮かべた少女のイメージを見たのです。でも、思わずそれを振り払ったとのことでした。今も、より成功することを目指してやまないこの男性の内界の少女のように純な心。そこが悲しみ、涙を浮かべているのはどうしてなのか?それは第三者から見れば即座に了解できることです。

 この例にもれず、本来治療であったはずのプラス思考や暗示療法が症状を生んでしまうとまではいわなくても、かえって症状を強化する場合や、また人の心全体のバランスからすると非常に不健康なものとなっている場合も数多いのではないでしょうか。

 このようなところから、昔ながらの催眠療法やプラス思考では、自我を強化する方向の一部分にしか役立たない事が見えてくるのです。

催眠は只のテクニックである

 催眠は人の超越的な支えや奇跡を求める心理、また上昇志向、権力指向的といえるような意識と結びついて、神秘的・魔術的イメージを強くまとってしまいました。そもそも催眠の歴史の始まりに神秘的・魔術的なイメージがあってそこから始まってきたのです。

 催眠療法の始祖といわれるメスメルは動物磁機説をとなえて、大きな円筒形の装置を作りそれに触れさせる事で治療を行ったようです。その治療を受けて奇跡的に良くなった人も確かにいたわけですが、結局その装置はみんなをその気(神秘的)にさせるための雰囲気作り、舞台装置のようなものだったということです。

 その後、その時代時代に則するように、いろいろな催眠療法の研究がなされた歴史があります。そして最近では特に催眠療法から派生したイメージ・セラピーにおいて「壺療法」という心理療法として、かなり大勢の人にほんとうに役立ちそうな技法も開発されてはいます。

 しかし一般的には催眠に対するイメージは相変わらず神秘的・魔術的なものです。先の「ギャップ」の章でも述べたように、スピリチュアルの流行と共に催眠を用いた前世療法がテレビ放映されたせいで注目され(どれほど役立つかは別にして)流行ってきた影響もあるので、催眠に対してもより神秘性が増すかもしれません。

 ちなみに、これもテレビからの影響ですが、催眠療法を希望するクライエントの中に、催眠によって過去のトラウマを探り当てそれにより治癒する、という(退行催眠などといわれている)治療イメージを持って来談される方も増えてきました。けれども少し詳しく聞いてみると、それによって奇跡に近いような典型的な治り方をするものであると思っていて、やはりこれも魔術的な意味合いがまだまだ強い催眠治療イメージなのです。

 後の章で詳しく述べますが、催眠とは被験者を感情移入状態や忘我状態に導くテクニック、平たく言えばその気にさせるテクニックといえるのです。日常における儀式やコンサート、その他の催し物などでは、参列者や観客をその気にさせ感動してもらうため、我を忘れる状態に導くための雰囲気作りが様々に工夫されています。そしてその雰囲気作りの方法にいろいろなやり方や傾向があるのと同様に催眠誘導者も被験者にその気になってもらい感情移入してもらうために様々なテクニックを使うわけです。

 人間はカリスマ的なリーダーに感化され、感情移入状態や、自己放棄(忘我)状態に至りやすいという理由から、催眠誘導者も工夫を凝らして神秘的な雰囲気作りをしてみたり、カリスマ的なやり方を採用する場合が増え、今までの催眠の歴史ではそれが催眠の本質と見えるくらいのメインとなってしまったのです。

 その結果、催眠というとそのようなイメージが定着してしまっているのですが、別にカリスマ的・神秘的でなくとも被験者にその気になってもらい感情移入してもらう方法は他にもあるのです。(最近では癒しの要素を取り入れてか、豪華なリラクゼーションソファーが催眠療法室の雰囲気作りの重要アイテムとして流行しているようです)

 確かに時には催眠療法や心理療法によって奇跡に近いような劇的な変化が起こる場合も実際あるのです。でもそれは実は人の心が元々持っている自然治癒力がタイミング良く急激に発揮されただけの事であって、催眠や心理療法はそのきっかけに過ぎないのです。特に治療者側はそれを取り違えてはならないし、ましてや自分がそれを起こせたのだ、などとの思い違いは言語道断です。

 ぜひこれからの時代に合うような、等身大で役立つような催眠を工夫をしていきたいものです。カリスマ性や奇跡を全て否定するわけではないですが、そこと重なり固着してしまった今までの催眠イメージをいったん切り離すのです。そして新たに催眠を只の心理操作技法の一つ、イメージ操作技法としてとらえなおして行けば、不思議で特殊に見える催眠も、ずいぶんとわかりやすく、また扱いやすくもなるのです。

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